壱岐国
壱岐国(いきのくに)は、玄界灘上の一島である壱岐島の旧国名[1]。西海道に属する[1]。壱州の別称がある。現在の長崎県壱岐市[1]。
地理[編集]
3つの令制国に囲まれているが、いずれも海上で接している。
歴史[編集]
弥生時代[編集]
弥生時代には「一支国」と呼ばれており、中国の正史『三國志』魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳(その一部が、いわゆる『魏志倭人伝』である)に書かれる「南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の一大国が「一支国」であったと考えられている。対馬国と末盧国の間にあり、原の辻遺跡は弥生時代の環濠集落であり、一支国の王都に比定されている。
平安時代[編集]
1019年(寛仁3年)3月28日、「刀伊の入寇」事件が発生した。対馬と壱岐に約50隻の海賊船が来襲し、各地で放火や殺人を行ったのである。刀伊とは中国東北部に住む女真族の海賊集団であった。海賊は1隻の舟に50名から60名ほど乗り込み、総数約3,000人ほどの大集団と見られる。壱岐守であった藤原理忠は、部下とともに戦死する。壱岐では148人が殺され、239人が捕虜となり、35名が生き残っただけとされる。 九州沿岸部では筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲った。1019年4月9日に賊は博多まで到達する。そのとき大宰府権帥であった藤原隆家(藤原道長の甥)らは博多の警固所で応戦する。4月11日には日本側の防御体勢が整い、刀伊約40人を討ち取り退散させる。次に刀伊は肥前国松浦郡に侵入したが、守備隊が刀伊の数十人を討ちとり撃退したため、刀伊は朝鮮半島に撤退した。
戦国時代[編集]
少弐氏、松浦氏と、肥前の大名に支配されていた。1573年頃になると龍造寺氏の支配が及び、以降は龍造寺氏滅亡、九州平定という流れになる。
江戸時代[編集]
江戸時代は平戸藩領。平戸松浦家33代松浦誠信は吉野秀政に『壱岐国続風土記』の編纂を命じ、1744年(延享元年)に完成した。全117巻である。
明治維新[編集]
廃藩置県で平戸県の県域となった後、1871年(明治4年)に長崎県に統合された。
1896年(明治29年)には、壱岐、石田の2郡が統合され、新たに壱岐郡が置かれた。