大寧寺

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大寧寺(だいねいじ)とは、山口県長門市深川湯本1074に存在する寺院である。宗派曹洞宗。多くの歴史的著名人と関わりがあることで有名な寺院である。

概要[編集]

山号は瑞雲山、あるいは東蘆山。寺院の名は大寧護国禅寺(だいねいごこくぜんじ)ともいわれる。室町時代中期の応永17年(1410年)、大内氏の一族である鷲頭弘忠によって創建されたというのが有力説だが、永享年間(1429年 - 1440年)の創建とする説もある。開山は智翁永宗が師匠の石屋真梁を招聘したとも、大内氏の当主である大内盛見薩摩国福昌寺から招聘したものとも言われている。

永享の乱関東管領を辞して諸国行脚の旅に出ていた上杉憲実は、4代目の住職である竹居正猷と意気投合してここに留まり、10数年の歳月をここで過ごして文正元年(1466年)に死去している。天文20年(1551年)に大内家の重臣・陶隆房が主君・大内義隆に対して謀反を起こした際には、嘉隆は山口から逃亡して大寧寺まで逃れた後、ここで残りの家臣や一族と共に自害している(大寧寺の変)。その後、陶隆房改め晴賢は安芸国毛利元就厳島の戦いで戦って敗死し、大内領の大半が毛利領になると、先の大寧寺の変で焼失した大寧寺の再建に乗り出し、570石の朱印を与えた上で義隆の慰霊を行なっている。

江戸時代になっても、周防国長門国を支配した長州藩領内においては有数の名刹として、末寺を455も抱える大寺院として君臨した。

境内の広さはおよそ5000平方メートルで、本堂や開山堂、観音堂、位牌堂、庫裏、紫雲閣、茶室などがあり、寺宝としては多くの古文書、雪舟狩野探幽らなど多くの書画がある。境内は桜の名所でもある。

また、上杉憲実や大内義隆といった歴史上の著名人と深く関わりがあることから、この両名の墓のほか、義隆と共に自害した家臣の墓、さらに義隆に庇護されていたが大寧寺の変に巻き込まれて殺された公家たち、三条公頼らの墓もある。なお、三条公頼は武田信玄正室三条の方の実父である。他にも大寧寺の歴代住職の墓もあり、大内義隆主従の墓と境内は山口県の史跡に指定され、本堂は山口県の有形文化財に指定されている。

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