北陸道

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北陸道(ほくりくどう)は、かつて京都から現在の北陸地方を範囲とした五畿七道、及び、それらに通ずる道路である。

名称[編集]

律令制の首都である京都からみて「北」へ向かう「陸」の「道」である「北陸道」から名付けられた。

沿革[編集]

古代[編集]

律令制の基で北陸地方への交通路として北陸道が整備された。北陸道は川越えこそはないが、木ノ芽峠俱利伽羅峠といった難所の峠があり、自然災害によって道路が破壊されたので時代によって経路は大きく変わった。一方、他の難所に親不知があるが、ここは山が迫っていて経路を変えるのが非常に難しいため、干潮を見計らっての海岸伝いの移動しかなく、東西の文化や方言の境界となっていた。

江戸時代[編集]

参勤交代が制度化されると道路の整備が進み、宿場町が繁栄した。陸路では多くの貨物が運べないので江戸時代中期には大阪を中心に内航海運が盛んになり、北陸地方にも北前船による航路が開設され、港町は大きく栄えた。

明治時代、大正時代[編集]

明治時代に入ると琵琶湖疏水が開通し、さらにここから敦賀へ抜ける運河も計画された。北陸道は国道に指定され、隧道掘削や河川への架橋などの整備が始まったが、大量輸送が可能な官設鉄道の敷設によって一時期整備が遅れた。

昭和時代[編集]

時代が昭和に入り、自動車の普及が始まると、鉄道駅から離れた集落を結ぶバスやトラックの運行が始まった。このため、道路の拡幅や付け替えが始まった。太平洋戦争中は整備が中断したが、戦後は国道8号に指定され、再び整備が始まり、舗装もされるようになった。さらに北陸自動車道が開通し、北陸地方の重要な道路となった。一方、新道の付け替えで狭く、曲線半径の小さい江戸時代以来の道路は生活道路となったが、峠道では廃道になった区間が多い。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部サイト[編集]

やまさいがねが:旧国道8号