高杉晋作
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高杉晋作 たかすぎ しんさく | |||||||||||||||||||||||
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高杉晋作(たかすぎ しんさく、1839年9月27日-1867年5月17日)は、幕末の政治運動家、軍人。
生涯[編集]
1839年9月、長州で出生。幼少期は坂本龍馬と同じく身分の高い家庭で過ごす。
18歳の時、松下村塾に入塾する。入塾当時、久坂玄瑞と小さくライバル関係で、このライバル関係が後に晋作の頭脳を覚醒させる事になる。しかし1858年、松下村塾をやめる[1]。その後江戸で勉強したが、同年長州に引き戻された。
そして1859年、吉田松陰が井伊直弼による安政の大獄で山田浅右衛門により斬首されると晋作は大激怒、各地を転々とするようになった。
1862年、毛利敬親の命令で上海に渡航。上海で太平天国の乱や、東亜の植民地支配をその目で見る。こののままではいけないと感じた晋作は日本に帰国。1863年1月31日未明、玄瑞や伊藤博文らと共に下関にある英国領事館を焼き討ちした。この事が起点として国民による尊王攘夷運動への意欲が高まっていく。しかし下関戦争で長州藩は大敗、幕府の怒りを買う事となった。
1863年6月、幕府の正規軍隊とは非公式である奇兵隊を結成[2]、倒幕運動の基礎が固まっていった。