要害山城
要害山城(ようがいやま(さん)じょう)とは、山梨県甲府市上積翠寺町にかつて存在した日本の城である。武田信玄誕生の地としても著名である。かつて甲斐武田氏が支配した城で、躑躅ヶ崎館の詰の城の役目を果たしていた。要害城、積翠山城とも呼ばれる。
概要[編集]
永正16年(1519年)、甲斐国領主の武田信虎は石和にある川田館から躑躅ヶ崎館に居館を移し、その詰城として築城を開始した。武田信虎は合戦が起こった際に籠城することを目的とした詰の城として標高770メートルの丸山に要害山城を築き上げた。この城は山腹の至る所を削って平らにし、三の丸・二の丸を経て山頂に長さ72メートル、幅25メートルほどの土塁に囲まれた本丸跡があることから、かなりの堅城だったようである。躑躅ヶ崎館はあくまで居館・政庁でしかなく、敵に攻められた際に対処できないため、この城を築いたものと思われる。信虎は突貫工事を行なったようで、永正16年(1519年)12月に完成させた。竣工後は家臣の駒井氏が城主となった。
この城の本丸跡には大きな石碑が建立されており、『武田信玄公誕生の地』と記されている。武田信玄が生まれた大永元年11月3日(1521年12月1日)に甲斐国は駿河国の今川氏親に攻められており、信虎は今川軍に対処するため妊娠していた大井夫人を要害城に避難させ、この地で信玄を生んだのだという。ただ、大井夫人は積翠寺で信玄を産んだとも伝わっているため、この真偽は定かではない。
なお、武田信虎も武田信玄も国外で常に戦い続けたため、この城は合戦が行なわれることなく廃城を迎えている。武田家でこの城は軍議(評定)をする際に用いられたのみだったという。
要害山の頂より西側斜面を中心に城が築かれており、麓の登山口から山頂の主郭に至るまで尾根沿いに堀切と多数の曲輪の出入り口となる八つの門跡が残されている。東西に伸びる尾根上に各曲輪を一直線に配置した連郭式の縄張りであった。曲輪を分断する堀切や枡形虎口、少数だが石塁等で城を守っていた。主郭などは土塁で造られていて、遺構はほとんど残っていない。