足利義稙
足利 義稙(あしかが よしたね、文正元年7月30日(1466年9月9日) - 大永3年4月9日(1523年5月23日))は、室町幕府の第10代将軍。
初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。
概要[編集]
父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘・日野良子(日野富子の妹)。
将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。幕府(武家政権)の将軍職に就いた者としては唯一、幕閣から放逐された後に返り咲きを果たした人物である。
生涯[編集]
記事においては便宜上、義稙で統一する。
出生・若い頃[編集]
文正元年(1466年)7月30日に足利義視・日野良子夫妻の息子として生まれる。居所が今出川であったことから、父と同じように「今出川殿」と称された。なお、幼名に関しては伝える史料が現在も存在せず、幼い頃の義稙は「今出川殿若君、今出川殿御息」などと史料では呼称されている。
義稙が生まれた翌年の正月から応仁の乱が開始される。文明9年(1477年)に応仁の乱が終結すると、父の義視は京都から離れて西軍の大名であった土岐成頼の美濃国に下向し、義稙もそれに従った。
文明19年(1487年)1月に元服して「義材」と名乗った。当時、彼は22歳であり、歴代の足利将軍家の男子としては高齢での元服であった。しかも、この際に1歳年上の従兄である第9代将軍・足利義尚の猶子となった(『大乗院寺社雑事記』)。さらに8月29日には従五位下左馬頭に叙任される。これは足利家の歴代将軍後継者が初めに任じられる特別な意味を持つもので、さらに義尚が朝廷に対して申請して実現したのだという(『御湯殿之上日記』)。これは義尚の生母で義稙の伯母である日野富子による政治工作によるものとされている。
1度目の将軍就任[編集]
長享3年(1489年)に第9代将軍・足利義尚は近江国の六角高頼討伐のために親征し、その陣において陣没した。義尚には後嗣の男子は無く、さらに義尚に男兄弟がいなかったため、後継者問題が勃発した。
この時点で、有力な義政の血縁者としては弟の義視とその子・義稙、それに堀越公方で兄にあたる足利政知とその次男・清晃(足利義澄)であった。この中で有力なのは義稙と義澄であったが、両者の年齢は24歳と10歳で、義稙のほうが有利だった。
これに対して、義尚の父で大御所であった足利義政は明確な後継者を選択することなく、自身が復帰して政務をとることを宣言したため(『蔭涼軒日録』)、しばらく第10代将軍の座は棚上げとなった。
延徳2年(1490年)1月に足利義政が死去すると、再び第10代将軍の後継者問題が浮上する。この際、義政未亡人の日野富子の後押しを受けて、4月28日に将軍家の三種の神器とも言うべき伝家の鎧である「小袖」を富子より譲り受けた。そして7月5日に正式に朝廷から第10代将軍として将軍宣下を受けて、将軍に就任したのである。
明応の政変と1回目の没落[編集]
義稙は将軍に就任したものの、まだ若く政治経験が乏しいため、父である大御所の義視の後見を必要とした。ところが、応仁の乱で日野富子と対立した義視とその息子の義稙は、富子の干渉を嫌って富子の邸宅である小川御所を破却したりした。これにより、義視・義稙父子と富子の仲は険悪となり、富子は清晃(足利義澄)を自らの下に迎えて牽制を図るようになる。
延徳3年(1491年)1月に義視が死去する(『後法興院記』)。さらに同年7月以前までに母の良子まで死去している(『実隆公記』)。こうして政治的に大きく依存していた父と、富子の実妹である母が相次いで死去したことにより、義稙は将軍ではあるが政治的に全く後ろ盾の無い孤立した状態に陥ってしまう。義稙はこの窮地を脱するため、前代の義尚が行なっていた六角高頼討伐を決定し、これにより将軍としての求心力を得ようとした(『蔭涼軒日録』)。この征伐が一応の成功を見ると、義稙は求心力を得るには軍事活動をするのが最適と考えたのか、今度は河内国の畠山基家の討伐を決定する。明応2年(1493年)、義稙は畠山政長の後見を受ける形で河内親征を開始したが、その最中である4月22日に明応の政変が勃発する。これは、義稙の河内遠征に反対した細川政元が京都に留まっていたが、その政元が日野富子と結託した上で、義稙の将軍職並びに足利宗家家督を廃し、第11代将軍に義稙の従弟である清晃(足利義澄)を擁立すると宣言するものであった。
この政変により、河内に在陣する足利軍は大いに動揺し、義稙に味方していた奉公衆や大名らは義稙から離反、あるいは様子見をし始めた。義稙をあくまで支持したのは一部の奉公衆と畠山政長のみという有様であった(『大乗院寺社雑事記』)。その後、1か月ほど義稙も抵抗したが、やがて京都から政元による義稙討伐軍が送られると、孤立した義稙軍はあっという間に瓦解し、政長は自害を余儀なくされ、義稙は閏4月25日に降伏して捕虜となった(『大乗院寺社雑事記』)。この際に伝家の鎧である「小袖」も政元に引き渡した。
とはいえ、義稙を支持する勢力はまだまだ存在しており、そのうちのひとつが自害した畠山政長の遺児である畠山尚順であった。義稙はこの尚順の手引きを受けて政元により幽閉されていた場所から脱出すると、琵琶湖を渡って美濃路を経由して越中国放生津に下向した。越中は尚順の領国で、当時は守護代の神保長誠が治めており、義稙はこの長誠の保護を受けて居所を構えた。そのため、「越中御所」「越中公方」などと称されるようになる。
復帰を目指す[編集]
越中に下向した義稙は、少なくない奉公衆や幕臣に支えられて一種の亡命政権を形成しており、さらに近侍する公家衆を通じて京都とも連絡を取り合っていた。義稙はしきりに御内書を各地に発給しており、幕府の公文書である幕府奉行人奉書と同様の奉公人奉書も発給しており、ほとんど将軍と同様に活動しており、そのため越中国など近隣諸国では将軍として認知されており、義稙自身も将軍として振舞っていた。
とはいえ、京都を支配して足利義澄を擁立する細川政元の勢力が強大であることも事実だったため、義稙は明応7年(1498年)初めに政元との和平を試みていた。政元は乗り気だったとされているが、細川氏の一門の反対により実現せず、この和平は決裂した。そして、義稙は越前国の朝倉氏を頼って下向し、この頃に義尹と改名したとみられている。これは、和平の失敗による状況からの心機一転を図ったのではないかと見られている。
明応8年(1499年)、義稙は上洛して細川政元を打倒するために軍事行動を起こすが、政元に敗れて周防国の大内義興を頼って下向した。
2回目の将軍就任[編集]
永正4年(1507年)、細川政元が家臣の反乱により暗殺され、細川氏が内紛を起こすという永正の錯乱が勃発する。この結果、細川京兆家の家督は養子の細川澄元が継承したが、澄元に政元ほどの実力や器量は無く、畿内は大混乱となる。
この事態を見た義稙、大内義興らは中国地方や四国地方の大名を総動員して上洛を開始する。畿内においても細川高国、畠山尚順らが義稙に味方したため、細川澄元は京都を維持できなくなり、足利義澄を連れて近江国に逃亡した。永正5年(1508年)7月1日、義稙は再度将軍に就任し、義澄の将軍職は解任されることになった。
なお、これにより義稙は2度にわたって将軍職に就任したことになり、本来ならば第10代と第12代を継承したと見なすこともできるが、基本的には2度目の将軍就任は再任であるとして歴代の代数には含めず、そのため第12代とは見なされていない[注 1]。
そして、2回目の没落[編集]
義稙は将軍職に復帰したものの、足利義澄は将軍に復帰するために執念を燃やしており、そのため義稙に対して刺客を送って暗殺しようとしたりした(『実隆公記』)。しかしこれらは失敗に終わっている。
永正8年(1511年)、義澄は各地の諸大名と連絡を取り合って将軍職を奪還するために侵攻をしかけてきた。ところが義澄はこの侵攻の最中に病に倒れて病死し、それによりそれまで不利だった義稙方が盛り返して最終的に船岡山の戦いで大勝し、これにより義稙の将軍職が一応の安定を見ることになった。
ところが、永正10年(1513年)3月17日夜に義稙は少数の側近のみを連れて突如、京都から出奔した。理由は義稙の後見人であった細川高国と大内義興に対して恨みがあったためとされている(『後法成寺関白記』)。これに対して細川らは義稙が出した7か条の条件を受け入れ「諸事の義稙の御成敗に背かないこと」を誓った上で帰京するように求めたという(『後法成寺関白記』)(『和長卿記』)。なお、この出奔後に名を義稙と改名している。これも心機一転のために改名したものと見られている。
義稙の蜜月は長くは続かなかった。義稙政権を長く支えていた大内義興と義稙の仲が悪くなり、そして永正14年(1517年)に義興は京都を離れ、永正15年(1518年)に周防国に帰国してしまった。これにより義稙を支えるのは、細川高国と畠山尚順のみとなり、義稙はそのうちの高国とも対立するようになった。義稙は高国を排除するため、もともとは義澄を支持していた細川澄元と結託し、一時は澄元方が優位に進んでいたが、高国の巻き返しを受けて澄元は敗れ、義稙も高国の立場を承認せざるを得なくなる。
永正18年(1521年)3月7日、義稙は京都を出奔し、淡路国を経て阿波国に落ち延びた。高国は義稙に代わる新将軍として亡き義澄の長男・足利義晴を第12代将軍として擁立し、これにより義稙の将軍職は再び廃されることになったのである。
最期[編集]
将軍職を廃された義稙であるが、再び復帰することを夢見て諦めてはおらず、あちこちに御内書を出したりしている。しかし今度は大内義興のような強大な勢力の味方もなく、高国の前に有効な手を打つことはできないまま、大永3年(1523年)4月9日に阿波国において病死した。58歳没。
義稙には子供が無かった。そして史料上で確認する限り、正室もいなかったと見られている。側室はいたようであるが、義稙には子供ができなかった。このため、皮肉にもかつて自分と対立した足利義澄の次男で義晴の弟である足利義維[注 2]を養子に迎えて後継者に指名したという。
足利義稙が登場する作品[編集]
- 登場作品
- 小説 宮本昌孝「妄執の人」(徳間文庫『将軍の星』収録)
- NHK大河ドラマ「花の乱」(1994年) - 大沢たかお(役名は足利義材)
- NHK大河ドラマ「毛利元就」(1997年) - 田口トモロヲ
- NHKBS時代劇「塚原卜伝」(2011年) - 本田博太郎(役名は足利義尹)
脚注[編集]
注[編集]
出典[編集]
日本史における歴代将軍一覧 |