細川氏
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概要[編集]
発祥[編集]
三河国額田郡細川郷(現・岡崎市細川町)を領したのが由来とされる。
宗家[編集]
細川義季の時代に誕生した。元は広沢氏と思われる。まだ三河国の御家人に過ぎず、継いだ細川俊氏も、細川公頼も、出家して僧侶となった。
しかし公頼は様子が他の者と違い、弟を京兆細川氏の初代当主に仕立て上げ、その後系統を淡路守護家に発展させるなどして力を尽くした。
その後の細川氏の宗家は、当主の細川清氏が、南朝の後村上天皇に寝返り、1362年7月24日に、白峰合戦で討死した事で没落している。
熊本藩主家[編集]
和泉上守護家の出自である細川藤孝は足利義昭のあと織田信長に仕えた。その後継者豊臣秀吉から丹後一国12万石の領有を認められた。細川忠興は関ヶ原の戦いの恩賞で、徳川家康から豊前小倉藩39万9千石(豊後杵築6万石を含む)を得る。 寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利の時代に肥後熊本藩54万石に加増・移封される。熊本藩は全国三位の一揆多発地であり、生活苦で逃亡する農民が続出している。(『永青文庫』の『松井家文書』)[1]。
また、藩財政は厳しく、江戸・大坂の大商人からの借金を何度も踏み倒して貧乏細川と言われたり、「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されたりした[2]。明治に至り侯爵。第18代当主細川護煕は、熊本県知事を経て、第79代内閣総理大臣)になったが、引退して陶芸家。嫡男の細川護光もまた陶芸家である。