朝倉氏

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一乗谷朝倉氏遺跡跡
遺跡全景
遺跡から一乗谷奥地を臨む

朝倉氏(あさくらし)は、但馬国(現在の兵庫県)が出身地で越前国(現在の福井県)へ入国した朝倉広景を祖とし、以後、朝倉義景まで越前朝倉氏として11代にわたって続いた大名家である[1]

概要[編集]

朝倉家の先祖は景行天皇(第12代)、孝徳天皇(第36代)、開化天皇(第9代)など諸説あるが確証は無い[2]

朝倉家が歴史上で明らかになるのは平安時代末期に但馬国の豪族だった日下部氏養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市八鹿町)を拠点とした際、その地名をそのまま苗字としたのが起源とされている。朝倉家初代の名を朝倉高清といい、この高清から7代目の朝倉広景の時に南北朝時代の動乱が起こり、その中で広景は足利尊氏の一族で重臣であった斯波高経家臣となって主に越前で活動して武功を立て、越前に朝倉家の基礎を築く。広景は坂井郡黒丸城を与えられて斯波高経の目代にまで昇進した[2]

広景の息子である朝倉高景は越前国内で7ヶ所の地頭職を得て勢力を拡大・発展させる。以後、朝倉家は家景の時代まで黒丸城を居城としながら越前守護代甲斐氏と争い、坂井郡や足羽郡に着実に勢力を拡大していった[2]

朝倉家が歴史の表舞台に登場するのは高景から数えて6代目の孫にあたる朝倉敏景(孝景)の時である。この敏景は武略、政略に優れた名将で、主家である越前守護の斯波氏で家督をめぐる内紛があり、これに乗じて斯波氏の家臣団の中で主導権を確立。応仁の乱では陪臣であるにも関わらず、時の将軍である足利義政管領細川勝元に一目を置かれ、抜群の活躍をして斯波氏に代わって越前の支配権を確立し、さらに室町幕府に公認させて文明3年(1471年)に斯波氏に代わって越前の守護職を手に入れた。敏景はさらに「朝倉敏景17箇条」(朝倉孝景条々)と称される分国法を定め、朝倉家の戦国大名化を成し遂げ、その基礎を固めあげた[2]

敏景の死後は斯波氏による越前復権活動や加賀国一向一揆に悩まされ、朝倉家の越前支配は苦難の時代を迎える。そんな中で朝倉家の主導権を掌握したのは敏景の末子である朝倉宗滴(教景)であった。この宗滴は戦国時代を代表する名将で、北陸の一向一揆を撃退し、丹後国や畿内など近隣諸国に出兵してその武名を轟かせ、朝倉家の全盛期を築き上げた。この間、朝倉家の当主は氏景・貞景・孝景(敏景とは別人)・義景と推移し、一乗谷を居城として越前を統治して戦国大名の領国制を採用し、宗滴の後見を受けながら着実に支配を行なっていた[3]

しかし天文24年(1555年)に宗滴が死去すると、その衣鉢を継げる人材を欠いていた朝倉家は、義景の凡庸と一族の内訌、一向一揆の外圧などから徐々に衰退の兆しを見せ始める[3]永禄の変足利義昭が越前に亡命して来た際にも義昭を庇護したものの上洛のための派兵は行なわず、義昭を織田信長の下へ亡命させる羽目になった。この間、義景は近隣の弱小勢力への侵攻だけは行なっており、その結果として加賀南部と若狭国に勢力を拡大している。

元亀元年(1570年)、足利義昭を擁する織田信長からの上洛命令を拒否し続けたため、織田信長・徳川家康連合軍による越前侵攻を受ける(敦賀城の戦い)。この際は浅井長政が信長から離反して背後を襲ったことから危機を乗り切るも、同年6月に行なわれた姉川の戦いでは織田・徳川連合軍の前に敗北する。志賀の陣武田信玄の侵略などで一時期優位に立った場面もあったが、義景の消極的な行動や采配ミスが相次いで悉く好機を逸する。

天正元年(1573年)、武田信玄の死去を契機として反攻に転じた織田信長による越前侵攻(刀根坂の戦い)により、義景は信長自らによる大追撃を受けて軍は壊滅し、有力武将の多くを失った。辛うじて越前に逃れた義景は一族や残った家臣を引き連れて再起を図るも、信長に通じた従兄弟の朝倉景鏡の裏切りに遭い、8月20日に遂に自殺[3]、ここに戦国大名としての朝倉家は滅亡した。義景の生母・妻子一族も信長によって処刑され、朝倉家の嫡流は滅ぼされた。

庶流はこの際に信長に降るなどして存続を図ったが、2年後に起きた越前一向一揆で信長や一揆衆に粛清されるなどして消滅。辛うじて一部の庶流が江戸幕府幕臣になるなどして存続している。

系譜[編集]

開化天皇彦坐王 - 船穂足尼 - 豊忍別乃君 - 島根尼君 - 太尼牟古乃君 ‐‐‐ 日下部表米 - 荒嶋 ‐‐‐ 利実用樹蕃在親泰広佐佐晴朝倉宗高朝倉高清八木安高八木高吉朝倉高実朝倉高景朝倉高資朝倉広信朝倉広景朝倉高景朝倉氏景朝倉貞景朝倉教景朝倉家景朝倉孝景朝倉氏景朝倉貞景朝倉孝景朝倉義景

越前朝倉氏歴代当主[編集]

越前朝倉氏系図[編集]

(不明な点も多く諸説あり)

開化天皇
  :
日下部佐晴
  ┃
朝倉宗高
  ┃
 高清
  ┣━━━━━┓
 広信   八木安高
  ┃     ┃
 広景1   八木氏へ
  ┃ 
 高景2
  ┃
 氏景3
  ┃
 貞景4
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 教景5                                                          頼景
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓     ┣━━┓
 家景6                                                    将景    景頼 景隆
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━━┓      ┣━━┓  ┃  ┃
英林孝景7                             経景  与一  光玖 勝蔵坊 景冬     景正 景世 景継 景契
  ┣━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━━━━┓     ┣━━━┓   :  |   ┃      ┃  ┃  ┃  ┃
 氏景8  孫四郎 景総 教景A 時景 景儀 景明    宗滴    景職 祖心紹越 教景A 景均  景豊     景忠 景純 景種 景頼
  ┃       ┣━━┓        ┃     :     ┃          ┃   ┣━━━┓  ┃  ┃
 貞景9      余六 地蔵院      景純    景紀B    景隆          某  九郎兵衛 春蘭軒 景富 義海
  ┣━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┣━━┓  ┣━━┓  ┃          ┃   |   :  ┃  ┃
宗淳孝景10 景高 景郡 景紀B 道郷 景延 景近 景尚 景垙 景恒 景健         景盛  春蘭軒  景嘉 景忠 景保
  ┃    ┣━━┓  ┃  ┃  ┃  |     ┃                  ┃   :      ┃
 義景11  景鏡 在重 景垙  某  景綱 景尚    七郎                景茂  景嘉     景富
  ┣━━━┓   ┃  ┃  ┃                                       ┃
阿君丸 愛王丸  宣正 七郎 道景                                      景忠

  • 系譜関係がよくわかっていない一族

主要家臣団[編集]

別の朝倉氏[編集]

相模後北条氏の家臣に朝倉氏がいる。朝倉氏の一族に養勝院殿がおり、彼女は後北条氏で「地黄八幡」で知られた勇将・北条綱成の母親である。

参考文献等[編集]

脚注[編集]

  1. 遺跡資料館 2016.
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 『戦国大名106家、最強の系図』(小和田哲男著。新人物往来社。2009年)150頁。
  3. 3.0 3.1 3.2 『戦国大名106家、最強の系図』(小和田哲男著。新人物往来社。2009年)152頁。