曹操

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曹 操(そう そう、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日220年3月15日))は、後漢末期の武将政治家・魏王。孟徳(もうとく)。魏の事実上の建国者であり、魏が建国された後は武帝(ぶてい)の諡号を贈られ、廟号は太祖(たいそ)を贈られた。

経歴[編集]

若い頃[編集]

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。

父は太尉だった曹嵩。幼名は吉利(きつり)。阿鏋(あまん)。曹氏は前漢劉邦の時代に重臣として宰相まで務め上げた建国の功臣・曹参の子孫である。曹操の祖父・曹騰宦官であり、父の曹嵩は夏侯氏からの養子である。

幼児からその奸智、機知ぶりを発揮するエピソードで語られている。そのため品行不良で多くの人からあまり認められていなかったが、梁国の橋玄、並びに南陽の何顒のみは曹操を高く評価していた。あるとき、曹操は橋玄に勧められて許劭と親交を深めていたが、その際に自分はどんな人間かを尋ねると「治世の能臣、乱世の奸雄」と答えられて大いに喜んだと言われている。

20歳の時に孝廉に推挙され、となり、洛陽の北部尉(現在なら警察署長)に任命される。曹操は法を犯した者はたとえ上級国民であろうと許さず容赦なく処罰し、一躍有名人となった。その後、頓丘県令議郎に昇進する。

出世[編集]

184年黄巾の乱が起こると、曹操は騎都尉に任命されて、潁川の黄巾賊討伐で大きな武功を立てた。このため、済南国に昇進し、そこで収賄や汚職に関与していた上級官吏の8割を罷免するという荒療治をやってのけた。さらに、当時は迷信深かったので宗教や迷信がよく信じられていたが、曹操はこれを信じることを一切禁止する命令を出した。

この功績から、今度は東郡太守に任命される。ところが曹操は任命を受けずに引退を表明して郷里に引き揚げた。これは当時、中央政府で何進十常侍の権力闘争がさらに深まっており、出世することで巻き込まれることを恐れたといわれている。郷里に引き揚げた曹操は、しばらくは狩りや読書を楽しみながら隠居のような暮らしをしていたが、その一方で時節を待っていた。そして、何進に招聘されて中央に戻ると、典軍校尉に任命されている。189年霊帝崩御により権力闘争がさらに深まると、曹操は何進を支持して少帝弁を擁立するように勧める。何進は袁紹の支援を得てそれを実行。しかし、何進は宦官張譲らによって殺され、その宦官らも袁紹によってほぼ皆殺しにされた。こうして外戚勢力と宦官勢力が消え去ったところに現れたのが董卓であり、董卓は権力を握ると暴政を繰り広げ、曹操は董卓暗殺を計画するも失敗して郷里に逃げ戻った。

勢力拡大[編集]

189年12月、曹操は私財を投げうって董卓討伐の義兵を募り、己吾で旗揚げした。190年、袁紹を盟主とした反董卓連合軍が結成されると、曹操はこれに参加している。董卓は洛陽を焼き払って長安遷都し、曹操は互いの利を見て動こうとしない連合軍諸侯を見限って単独で追撃したが、沔水で董卓の部下・徐栄に敗れてしまった。連合軍解散後の191年、曹操は東郡に侵攻した黒山賊を討伐し、袁紹より同郡の太守に任命される。

192年、董卓が長安において呂布王允らによって暗殺され、中央政府に強大な実力者が不在となると、曹操の領地で青州の黄巾賊100万人が侵攻する事態となる。これを迎撃した兗州刺史劉岱は戦死したため、鮑信らによって後任の兗州牧に推挙された。そして鮑信らと協力して黄巾賊討伐に当たるが、鮑信が戦死するなど苦戦が続く中でようやく鎮圧に成功し、黄巾賊を自軍に吸収してその中でも精鋭を選び抜いていわゆる青州兵を編成した。また、この頃から曹操の下に荀彧程昱郭嘉などの優秀な人材が集まるようになり、曹操も優れた人材を多く集めることに力を入れている。

董卓の死後、群雄は袁紹派と袁術派に分かれて争うようになり、曹操は袁紹に属して袁術派の陶謙劉備呂布らと戦った。この過程で陶謙が兗州東部の泰山郡に侵攻して曹操の父・曹嵩を殺害したため、曹操は2度にわたって徐州に侵攻し、無差別の大虐殺を決行した。この大虐殺により、諸葛亮をはじめ、張昭など多くの人材が曹操以外の勢力に属することになる契機となる。また、194年の2度目の徐州侵攻の際に張邈陳宮らによって呂布が兗州に擁立されて一時期兗州の大半を奪われることになる。曹操はやむなく徐州から引き揚げて呂布と戦い、2年にわたる激しい攻防戦の末、ようやく呂布を追い出して兗州を再平定した。

196年、曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れると、自らは大将軍に任命され、さらに武平侯に封じられる。しかし、大将軍に任命されたことで袁紹を刺激することを警戒して大将軍職は袁紹に譲り、自らは司空車騎将軍になった。同年から屯田制度を実施し、曹操は自軍の戦争に欠かせない食糧の充実に努め、内政を整備する。この間、張繍と戦うも、息子の曹昂と甥の曹安民、さらに股肱の典韋を失う大敗を喫したりしている。しかし、次第に勢力を拡大し、198年には呂布を、199年には袁術を次々と滅ぼし、さらに張繍も降伏させて河北南部をほぼ平定した。呂布との戦いの過程で協力していた劉備は離反したが、200年に劉備も討伐し、劉備は袁紹の下に逃げ込んだ。

そして同年、袁紹と華北の支配をめぐって衝突し、前哨戦の白馬の戦い顔良文醜の袁紹軍の2枚看板を討ち取る戦果を挙げる。さらに官渡の戦いで袁紹軍と対峙し、この戦いでは長期戦に持ち込まれて自軍の食糧が不足するなど次第に不利な状況に追い込まれるが、参謀の荀彧の助力と袁紹配下の許攸の裏切りにより、袁紹軍の食糧基地であった鳥巣を襲撃して遂に逆転勝利した。202年に袁紹が病死すると、袁氏内部で袁譚袁尚兄弟による相続争いが起こり、曹操は袁譚と組んでこの争いに巧みに介入し、最終的には207年までに袁譚も袁尚も滅ぼして、華北の大半を平定した。

敗北と魏王就任[編集]

華北を平定した曹操は、208年に献帝から丞相に任命される。そして同年に華南の征服を計画して、荊州に向けて南下を開始した。曹操が南下する頃に荊州では劉表が病死し、後継者の劉琮は曹操と戦わずして降伏した。

その後、曹操は劉表のもとに客将として滞在していた劉備討伐にあたり、逃げる劉備を追って江南に向かう。江南には孫権がおり、曹操は孫権に狩りをしようという書状を送って暗に降伏を呼びかけるが、孫権は拒否して周瑜魯粛の協力のもとに徹底抗戦の構えを見せた。曹操は赤壁で孫権の水軍と対峙するが、水戦に不慣れな曹操軍は孫権軍に敗れた上、この頃から慣れない南側の気候などから曹操軍内で疫病が流行ってしまい、それにより戦いどころではなくなってしまう。最終的には孫権軍の名将・黄蓋の活躍で曹操軍は火攻めにあって焼き払われ、曹操は華北に逃走した。

この敗戦により天下統一の機会を遠のかせた曹操であるが、以後は王莽前漢を乗っ取ったように合法的なやり方で後漢王朝を乗っ取る方法に切り替える。すなわち、涼州馬超韓遂が反乱を起こすと、それを苦戦の末に平定し、213年に魏公に就任した。さらに215年漢中張魯を降伏させ、216年に魏王に封じられた。こうして後漢王朝を乗っ取る一歩手前にまで上り詰めた。

晩年[編集]

しかし、漢中を平定したことで、益州を平定していた劉備との対立が深まり、数年にわたる漢中攻防戦が開始される。また、合肥では孫権にも攻撃を受けるなど、次第に劉備と孫権の前に守勢に回るようになった。漢中攻防戦は219年定軍山の戦い夏侯淵が戦死したため、劉備に漢中を奪われている。

しかし、劉備の勢力拡大を危惧した孫権は、曹操と同盟を結んで荊州の関羽を攻撃。219年末までに曹操は孫権と連合して関羽を滅ぼした。この間、関羽の快進撃の前に一時は曹操は首都を遷そうと考えたが、司馬懿蒋済に反対されて思い直している。

220年1月、洛陽で死去した。66歳没。後継者の座は子の曹丕が継承し、曹操の死から9か月後に曹丕は献帝からの禅譲を受けて魏王朝を建国した。

家族[編集]

父母[編集]

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  1. 曹徳[注 1]
  2. 曹彬(薊恭公)
  3. 曹玉(朗陵哀侯)

妻妾[編集]

正室:

側室:

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兄弟の長幼は不明な部分が多いため、以下は『三国志』武文世王公伝の兄弟順に従う。裴松之はこれが生母の貴賤に拠った順序であると指摘している。

  1. 豊愍王 曹昂(子脩)- 母は劉夫人
  2. 相殤王 曹鑠(早世)- 母は劉夫人
  3. 文帝 曹丕(子桓)- 母は卞王后
  4. 任城威王 曹彰(子文)- 母は卞王后
  5. 陳思王 曹植(子建)- 母は卞王后
  6. 蕭懐王 曹熊(早世)- 母は卞王后
  7. 鄧哀王 曹沖(倉舒)- 母は環夫人
  8. 彭城王 曹據 - 母は環夫人
  9. 燕王 曹宇(彭祖)- 母は環夫人
  10. 沛穆王 曹林 - 母は杜夫人
  11. 中山恭王 曹袞 - 母は杜夫人
  12. 済陽懐王 曹玹(早世)- 母は秦夫人
  13. 陳留恭王 曹峻(子安)- 母は秦夫人
  14. 范陽閔王 曹矩(早世)- 母は尹夫人
  15. 趙王 曹幹 - 母は陳姫[注 3]
  16. 臨邑殤公 曹上(早世)- 母は孫姫
  17. 楚王 曹彪(朱虎)- 母は孫姫
  18. 剛殤公 曹勤(早世)- 母は孫姫
  19. 穀城殤公 曹乗(早世)- 母は李姫
  20. 郿戴公 曹整 - 母は李姫
  21. 霊殤公 曹京(早世)- 母は李姫
  22. 樊安公 曹均 - 母は周姫
  23. 広宗殤公 曹棘(早世)- 母は劉姫
  24. 東平霊王 曹徽 - 母は宋姫
  25. 楽陵王 曹茂 - 母は趙姫

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従子・族子[編集]

甥もしくは曹操より一世代下の親族

従兄弟・族兄弟[編集]

いとこもしくは同世代の親族

養子[編集]

その他[編集]

  • 晋の実質創始者である司馬懿を登用したのは、曹操である。
    司馬懿の評判を聞き、曹操は「引っ張ってでも連れて来い」と発し、司馬懿は仕えることになったが、存命中、自身の進言が曹操に登用されることはなかった。

脚注[編集]

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注釈
  1. 『後漢書』曹騰伝は「曹疾」と作る。また夏侯衡は曹操の弟である海陽哀侯の娘を娶っているが、海陽哀侯が誰を指しているかは不明。
  2. 『三国志』では、彼女の姓氏には触れない。『三国志演義』では鄒氏と呼ばれる
  3. 『三国志』趙王幹伝が引く『魏略』は陳氏が生母であるとしている。
出典
  1. 『文選』陸機「弔魏武文」の李善注が引く『魏略』に見られる。

関連書籍[編集]

曹操を主題とした作品[編集]

小説
  • 陳舜臣『曹操 魏の曹一族』(1998年、中央公論社)
映画
テレビドラマ
漫画
コンピュータゲーム

関連項目[編集]

外部リンク[編集]