魯粛
魯 粛(ろ しゅく、172年 - 217年)は、中国の後漢末期の武将・政治家。字は子敬(しけい)[1]。子は魯淑。孫は魯睦。
孫権に仕え、赤壁の戦いでは周瑜と共に抗戦派として活躍した。周瑜の死後はその遺言で孫呉を支える社稷の重臣となり、劉備との関係を重視して曹操と戦った。
生涯[編集]
周瑜との交誼[編集]
徐州臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身[1]。魯家は大金持ちであったが、魯粛は気前の良い男で家財を盛大にばらまき、必要なら田畑を売りに出して困窮している人々を救い、有能な人物と契りを結ぶことに務めて郷里の人々の心をつかんだ[1]。
当時は袁術に身を寄せて居巣県の長をしていた周瑜が魯粛の評判を聞いて部下を連れて訪ねてきた[1]。どれほどの男か器量を確かめに来たのであり、周瑜は挨拶を終わると魯粛に食糧の援助を求めた[1]。すると魯粛は事もなげに「2つの米蔵にはそれぞれ3000石が入っているのだが、そのうちの一つを丸ごと差し上げよう」と言ってのけた[1][2]。これには援助を頼んだ周瑜の方が驚いた[2]。これを契機に以後、周瑜と魯粛の親交は深まった[2]。その魯粛の名声を聞きつけた袁術は、魯粛を東城県の長に取り立てた[2]。しかし魯粛は袁術がいずれ破滅するのを見抜いて一族郎党を率いて周瑜の下に身を寄せた[2]。
周瑜は魯粛を主君・孫権に推挙した[2]。魯粛はこの時、孫権に天下統一の大計を説いた[2]。これを孫権は大いに気に入り、魯粛を信任するようになった[2]。
208年、曹操が大軍を率いて南下する。荊州刺史・劉表は曹操の南下が開始された頃に病死[2]。荊州はこのため戦わずして曹操に降伏した。これを受けて孫呉は動揺し、張昭などは曹操への降伏を説いた。それに対して魯粛は主戦論を説き、孫権に「私は曹操に迎え入れられるでしょうが、我が君はそれができません。何故なら曹操は私の出自を評価し、下曹従事以上の官職を与えるでしょう。やがては刺史か太守にもなれるでしょうが、我が君はそうはいかないでしょう」と述べた[3]。
孫権は荊州の動向を探るため、劉表の弔問使として主戦派の魯粛を派遣した[2]。魯粛は荊州に向かう途中で曹操に荊州が降った事を知り、夏口で襄陽から逃れてきた劉備と出会い、主戦論を説いた[2][3]。劉備は魯粛の考えに同意し、孫権の下に戻る魯粛に謀臣の諸葛亮を同行させた[3]。諸葛亮は孫権に「天下三分の計」を説いて孫権に決戦を踏み切らせた[3]。
赤壁の戦いの後、周瑜と魯粛の間に劉備との関係をめぐって確執が生じた[4]。周瑜は劉備の存在を危険視して早期の処分を主張し、魯粛は劉備を利用して曹操に対抗する事を主張していた[4]。孫権は魯粛の意見を採用し、荊州を劉備に貸し与える形で劉備と同盟を結んだ。210年、周瑜は死去するが確執があったにも関わらず、孫呉の社稷を支える重臣は魯粛の他に無いと判断しており、自分の後継者には魯粛を指名した[1]。
社稷の重臣[編集]
周瑜の後任として荊州に赴任した魯粛は、荊州問題の解決と劉備との関係維持が使命となった。劉備が益州を平定すると、孫権は荊州の返還を要求した。当時、劉備軍の荊州責任者は関羽であった。劉備は荊州返還に応じず、孫権は実力で荊州を奪取しようとしたため、214年に劉備と孫権は一触即発の事態となった[5]。魯粛は益陽(現在の湖南省益陽)に軍勢を留め置いて関羽と対峙した上で、関羽との会見を申し入れた[5]。関羽もこれに応じて、両軍それぞれ100歩離れた所に留まると魯粛と関羽はそれぞれ護身用の剣一振りを身に付けただけで会見した[5]。これが有名な「単刀赴会」である[5]。魯粛は関羽に「荊州を貸し与えたのは劉備が戦いに敗れ、遠く身を寄せてきて身を立てるべき資を持っていないのに同情した我が君の厚情によるもの。今では既に益州を手に入れているにも関わらず、荊州を返還しようという気持ちも無い。やむなくこちらは荊州の南3郡を返すように求めたのに、それすら聞き入れようとしない」と劉備軍の非を責めた[5]。するとその時、関羽軍のある男から「土地というものは徳のある者に属するのであって、いつまでも一人のものであるとは限らない」と声が上がった[6]。これは明らかに約束違反だった。魯粛は事前に関羽とだけ会見を申し込んでいたのだから、関羽は慌てて立ち上がり「これはもとより国家に関する事で、この者の関知するところではない」と謝罪した上で発言者を退席させた[6]。結局、曹操の脅威は劉備も孫権も受けていたため、劉備が折れる形で和平が成立し、湘水の流れによって東西に荊州を分割する事になった[6]。
217年に病死[6]。享年46[6]。魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙にあらず」のエピソードでその才知と器量を認めていたため、呂蒙を後任とした。劉備軍の諸葛亮は魯粛の死去を知ると喪に服した[6]、と伝えられている。
人物像[編集]
『呉書』では魯粛の人物について「方正謹厳で自らを飾る事が少なく、その生活は内外ともに質素であって、人々がもてはやすような事には興味を示さなかった。軍の指揮に当たっては、なおざりなところが少なく、禁令は誤りなく行なわれた。軍旅の間にある時にも、書物を手から離すことなく、また議論が巧みで文章もうまく、その思慮は遠くに及んで、人並み優れた洞察力を備えていた。周瑜亡き後、呉を代表する人物であった」と高い評価を記録している。
これほどの人物であるにも関わらず、小説『三国志演義』では諸葛亮に愚弄されるお人よしとして描かれ[3]、荊州領有問題でもそのお人よしが影響して無能な人物とまでは言わないがやはり常に劉備、諸葛亮に手玉に取られている。単刀赴会も演義では関羽の英雄像を際立たせるために魯粛に損な役回りを描かせたりしている。