曹彰

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曹 彰(そう しょう、? - 黄初4年6月17日223年8月1日))は、中国後漢末期から三国時代にかけて武将。魏の皇族子文(しぶん)[1][2]。父は曹操(曹操の男子としては4男、卞氏の子としては次男)。同母兄は曹丕。同母弟は曹植曹熊ら。妻は孫賁の娘。子は曹楷・女子一人(魏の王昌妻)。曹温曹悌曹芳曹詢ら。記録には曹章とも書かれている[2]

生涯[編集]

若い頃から弓術と馬術に優れ、激しい気性の持ち主で、腕力は人並み以上で猛獣と格闘することもできたという[1][2]。曹彰自身は「衛青霍去病のような前漢時代の名将になって功名を立てたい」と望み、学問には励まなかった[1]。ある時、父の曹操が子供たちに「将来は何になりたいのか?」と尋ねた際、曹彰は「将軍となって士卒たちの先頭に立って戦いたい」と語り、曹操は大いに笑った[1]

218年幽州代郡鳥丸族が反乱を起こしたので、曹操は曹彰に討伐を命じ、曹彰は北に赴いて涿郡において反乱軍と遭遇する[1]。この時はまだ自軍の兵馬が集結していたかったので、参謀となっていた田予の計略で敵を撃破し、曹彰はそのまま反乱軍を追撃して自ら戦闘に加わって弓を射るたびに必ず敵を倒すなど奮戦し、逃げる敵を追撃するうちに遠距離を行軍して兵馬ともに疲れ果ててしまう[1]。それでも追撃を強行した曹彰は、敵を大いに打ち破った上に、戦後の褒賞で将兵に普段の倍の恩賞を与えるなど奮発したので、将兵は全員大いに喜んだ[1]鮮卑族軻比能は数万の騎兵を率いて曹彰の隙を窺っていたが、曹彰の強さを知って服従することを決めたので北方は曹彰により平定された[1]。ただし『鮮卑伝』によると軻比能は鳥丸族とともに曹彰と戦い、大いに打ち破られたと記録されておりどちらが真実なのかはわからない。曹操は曹彰の大勝利を知ると、「黄鬚(こうしゅ、虎髭を生やしたような勇者の称号)よ。よくやった」と褒めたたえたという[1]

219年に曹操と劉備との間で漢中郡をめぐる争奪戦が行なわれ、劉備が養子劉封を出して戦いを挑ませると、曹操は激怒して「我が黄鬚を呼んで攻撃してやる」と言って、曹彰を漢中郡に呼び寄せようとした。曹彰は父の命令で昼夜を問わずに行軍を続けて長安にまで到着したが、その時には曹操は既に漢中郡から撤退していたので曹彰は漢中郡を通ってから撤退したという(『魏略』)。

曹操は洛陽に撤退しようとした際、曹彰を越騎将軍代行に任命して長安に留め置いた[1]220年に曹操が洛陽で死の床につくと、曹操は長安にいる曹彰に早馬を出して召し寄せようとしたが、曹彰が洛陽に到着する前に曹操は死去した[1]。曹彰は洛陽に到着して父の死去を知ると、父の葬儀を取り仕切っていた賈逵に対し、璽綬(印璽とその紐)の在処を尋ねたが「貴方が尋ねるべきことではない」と反論された[1]。曹操の死後、同母兄の曹丕が魏王を継承し、曹彰には兄から5000石を加増されて前の領土と合わせて1万戸となる[1]。曹丕が文帝として魏の皇帝即位すると、曹彰は任城王に封じられた[1]

223年、洛陽に参内した際に急死を遂げた[1]享年は不明だが、曹丕が187年生まれであり、曹植が192年生まれであるため、36歳から32歳までの間だったことは確かである。その急死に関してはかつて曹彰が璽綬の場所を尋ねたことで曹彰の内心を疑っていた曹丕が反逆を恐れて呼び寄せておきながらすぐに謁見を許さず、曹彰は怒りのあまり憤死を遂げたとする説(『魏氏春秋』)、曹丕により毒殺された説(『世説新語』尤悔篇)などが紹介されている。諡号は威王(いおう)という[2]

三国志演義』では第72回の漢中郡攻防戦で、諸葛亮の策略に振り回されて苦戦する父・曹操を救援するために北方の異民族を平定してから駆け付け、劉封を一騎討ちで追い払い、呉蘭を斬り殺すなど大いに活躍するが、それが逆に多くの蜀の勇将たちを張り切らせることになり撤退を余儀なくされる[1]。曹操の死後、長安から10万の大軍を率いて洛陽に押し寄せるが、史実通り賈逵に反論されてやむなく単身で曹丕と面会し、父の喪に服した[1]。さらに10万の軍勢を曹丕に預けて任地に引き返すところで物語には登場しなくなる[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小出『三国志武将事典』P177
  2. a b c d 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、211頁

参考文献[編集]