曹宇
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曹 宇(そう う、? - 278年?)は、中国の三国時代の魏の皇族。字は彭祖(ほうそ)。父は曹操。生母は環夫人。同母兄は曹沖・曹據。異母兄は曹丕(魏の初代皇帝・文帝)・曹彰・曹植・曹彪ら。子は曹奐(魏の最後の皇帝・元帝)。妻は張魯の娘(張魯伝)。
略歴[編集]
曹操と環夫人の間の第3子。211年に都郷侯に封じられ、その後も魯陽侯、下邳王、単父県王、そして燕王に封じられている。
明帝(曹叡)とは叔父・甥の関係であるが、年齢が近かったためか明帝とは早くから行動を共にして親密な仲にあり、他の諸王より厚遇された。238年12月に明帝が重病に倒れると、明帝は後継者の曹芳が幼弱であったことから一族の曹宇を大将軍に任命して後事を託そうとした。曹宇はこれを受けようとしたが、政敵の劉放と孫資によって明帝の詔勅が書き替えられ、曹肇、夏侯献、秦朗と共に罷免されて失脚した。また、曹宇自身もあまり政治的な野心は無く、謙虚であったという。
その後も魏の皇族として加増を受け、領地は最終的に5500戸を領有した。260年に実子の曹奐が魏の元帝として司馬昭に擁立されると、皇帝の実父となったので元帝から特別な待遇を受けることになった。
265年に魏が滅亡して西晋が誕生した後もまだ存命していたようで、『晋書』によると西晋の咸寧年間(275年 - 280年)まで生きていたようである。少なくとも278年以前には死去していたらしい。曹操の子女の中ではかなりの長寿であった。なお、西晋では燕王から燕公に降格されている。
『三国志演義』では238年の明帝の重病の際に、大将軍を固辞する場面において登場するのみである。