顔良
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顔 良(がん りょう、? - 200年)は、後漢の武将。袁紹の家臣。南北朝時代の顔之推と同族とする説がある。
生涯[編集]
武勇に優れた猛将で文醜と共に袁紹軍の双璧であった。孔融は「三軍を覆う勇士」と評したという[1]。しかし荀彧は「匹夫の勇でしかなく生け捕りにできる」と評している[1]。
200年の官渡の戦いでは顔良は郭図や淳于瓊を率いて白馬にいる東郡の太守である劉延を攻めた[1](白馬の戦い)。この時、袁紹の参謀である沮授は「顔良は勇猛だが性格が偏狭なので作戦を任せてはいけない」と諌めたが袁紹は聞き入れなかった[1]。曹操が相当な速度で白馬に進軍してくると顔良は迎撃したが、当時曹操の客将となっていた関羽に斬られた[1]。
『関羽伝』では顔良の旗指物を見つけた関羽が馬で駆けて一刀の下に倒したとされる。
『三国志演義』でも袁紹軍の勇将として登場し、公孫瓚との戦いで活躍する。白馬の戦いでは呂布の旧臣であった魏続と宋憲を斬り、徐晃を追い払って曹操軍に恐れさせる武勇を発揮。しかし関羽に一刀の下に斬られて戦死した。『弘治本(嘉靖本)』では当時袁紹の客将となっていた劉備が関羽のことを顔良に話し「見かけたら私の居場所を教えてほしい」と依頼していたという。そのため顔良は関羽を見つけて声をかけようとして油断しており、そこを関羽に討たれたという。