夏侯和
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夏侯 和(かこう か、又は、かこう わ、生没年不詳)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家。字は義権(ぎけん)[1]。父は夏侯淵。兄は夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威・夏侯栄・夏侯恵。
生涯[編集]
夏侯淵の7男。明帝時代の227年から233年にかけての間に関内侯となる[1]。夏侯和は弁舌爽やかで才気に満ちていたという[1]。
魏の第5代皇帝である元帝の時代に相国左司馬となった(『陳留王紀』)。
264年に蜀滅亡後に鍾会が反乱を起こした際、夏侯和は使者として成都にいたが加担せずに抵抗したため、鎮圧後に侯郷に昇進した[1]。後に河南尹・太常となった[1]。
『晋書』賈充伝によると、274年に西晋の武帝が重病になったとき、弟の司馬攸を後継にしようと賈充に主張し、賈充は黙殺した。この時は武帝は回復したので、警戒されて左遷されたという。
『三国志演義』では夏侯淵の4男として登場。兄の夏侯恵と共に兵法に長けた人物で、司馬懿に従って諸葛亮の最後の北伐に参加している。