韓遂
韓 遂(かん すい、? - 215年)は、後漢末期の武将・政治家・群雄。字は文約(ぶんやく)[1]。涼州と関中で30年にもわたって独立勢力を維持したが、最終的に曹操に討伐されて勢力は消滅した。
生涯[編集]
涼州金城郡の出身[1]。『後漢書』では初名を韓 約(かん やく)という。
最初は辺允と共に西方において名を挙げ、異民族から絶大な支持を集めた[1]。大将軍・何進の時代に洛陽に入って計吏となり、何進に宦官の誅滅を進言したが聞き入れられなかったため、故郷に引き揚げた[1]。184年に涼州で羌族の北宮伯玉や李文侯が反乱を起こすと、韓約も辺允と共にこの反乱に加わり、軍政を担当している[1]。この際、何進は韓約と辺允に千戸侯の位と懸賞金を懸けたため、韓約は韓遂、辺允は辺章にそれぞれ改名した[1]。この反乱は一時は10万の兵力を数える大規模なものとなったが、何進が派遣した張温・董卓・孫堅・陶謙らによって討伐され、韓遂は涼州に逃亡する[1]。186年にはそれまで組んでいたはずの北宮伯玉・李文侯・辺章らを皆殺しにし、新たに馬騰と手を組んで王国を盟主に擁立して三輔に侵攻したが、この反乱も皇甫嵩により陳倉で防がれ、韓遂は王国を追放して馬騰を盟主に擁立した[1]。
192年に政権を掌握していた董卓が殺害されると長安に赴き、鎮西将軍に任命されて金城に駐屯する[1]。韓遂は馬騰と義兄弟の契りを結んで最初こそ親しくしたが、後に仲違いをして対立に転じ争い始めたので韓遂は馬騰の妻子を殺害した[1]。しかし200年頃に曹操配下の鍾繇の仲介により和解し、それぞれ曹操への人質として家族を後漢朝廷に参内させた[1]。
211年、馬超や楊秋、侯選らと関中・涼州の軍閥を連合して曹操に対して反乱を起こし、一時は潼関に至るなど優勢であったが、曹操の参謀・賈詡による手紙を用いた離間の計により馬超と対立して離反し、曹操軍に敗れて逃走する[1]。この敗戦を機に韓遂の勢力は急速に衰退し、家臣の閻行らに背かれるなどした[1]。214年には曹操が派遣した夏侯淵により追討を受けて西平に逃走し、215年に曹操が漢中郡の張魯を討伐するために西に出陣してきた際、西平や金城の豪族であった麹演・蒋石らが曹操を恐れて韓遂を襲撃して斬り殺し、その首級を曹操の下に送ったと伝えられる[1]。年齢は70歳を超えていたという[1]。ただし、病死説もある[2]。
『三国志演義』では并州刺史とされており、184年からの反乱などは描かれていない。董卓の死後、董卓残党を討伐するため馬騰と共に長安に迫るが敗れて樊稠に見逃してもらっている。以後しばらく登場は無いが、馬騰が曹操に殺されて馬超が挙兵するとその同盟者として同調し、参謀として活躍する。しかし史実どおり賈詡の離間策に敗れて馬超と対立して馬超によって左手を斬り落とされる。馬超が敗走すると曹操に降伏して家臣となり、西涼侯となった。以後は登場しない。なお、演義では年齢を40歳と史実よりかなり若く設定されている。