郭嘉

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郭 嘉(かく か、170年 - 207年)は中国後漢末期の武将政治家奉孝(ほうこう)[1]。子は郭奕。孫は郭深郭敞。曾孫は郭猟

生涯[編集]

豫州頴川郡陽翟県(現在の河南省禹州市)の出身。最初は袁紹に仕えたが、荀彧同様に袁紹を見限り、荀彧の推挙を受けて曹操に仕えた。この際、曹操は郭嘉を見て「わしに大事を完成させてくれるのは、間違いなくこの男だ」と言ったという。郭嘉は荀彧らより1世代若いが並はずれた洞察力を持ち、曹操の信頼は厚かった[1]

200年官渡の戦いが起こると、南の孫策が曹操の背後を突こうとしたため、曹操は動揺した。それに対して郭嘉は「孫策は江南を併呑したばかりで、彼に誅殺された英雄豪傑の部下には命を捨てても報復を志す者も少なくないでしょう。にも関わらず孫策は彼らを甘く見て全く無防備だということです。100万の兵を率いていようとも、まるで一人荒野を行くに等しいということが言えましょう。もし、刺客に不意を衝かれたらひとたまりもあるまいと思われます。こう見てくると、孫策は必ず匹夫の手にかかって暗殺されるでありましょう。ですから孫策に背後を衝かれるというのは杞憂に過ぎないと存じます」と予言した。曹操は郭嘉の言葉に疑心暗鬼だったが、孫策は元呉郡太守許貢の残党に間もなく暗殺された。袁紹は徐州劉備と連絡を取って曹操を挟撃する計画を立てた。曹操は自ら劉備を討伐しようとしたが、曹操が都を留守にしたら袁紹が大軍を率いて南下しかねなかったため、曹操は躊躇していた。郭嘉は東進して劉備を討つことを勧め、袁紹の動きに関しては「袁紹は優柔不断な男で絶対に急襲などかけて参りません。しかも劉備は挙兵したばかりで民心を得たとは言えません。今一挙に討てば必ず倒せます。こんな好機を見逃す手はありません」と述べた。郭嘉の予言どおり、袁紹は我が子の病気を理由に参謀・田豊の南下作戦を容れずに動かず、劉備は曹操に敗れて袁紹の下に逃亡した[1][2]

202年、袁紹が死去してその勢力は長男の袁譚と3男の袁尚に分裂した。曹操の家臣の多くはこの分裂を好機として北上するように進言したが、郭嘉は反対した。その理由として「ここで袁兄弟を攻撃したら両者はいがみ合いをやめて団結して向ってきます。袁紹は末子を可愛がるあまり、長男を後継者に立てることなく死にました。兄弟の間には必ず内紛が生じて放っておいてもばらばらになります。まずは一旦退いて南の劉表を攻めると見せて袁兄弟に異変が起こるのを待つのが上策です。異変が生じた後に攻め込めば、一気に平定することができます」と述べた。曹操はこれを聞き入れて劉表を討つと見せかけて南下した。すると袁譚・袁尚兄弟は争いをはじめ、袁譚は窮地に陥って曹操に救援を求めた。曹操は救援を出すべきかどうか迷ったが、郭嘉は「出せば一気に袁氏の残党問題は解決する」と述べて出させた。そして袁尚を袁譚と組んで追い払い、そして袁譚も討った。北に逃げた袁尚は207年、鳥丸と組んで曹操に反撃してきた。曹操は北征を計画したが、曹操が都を留守にすれば南の劉表が劉備と共に北上してくる恐れがあるため家臣から反対意見が起こった。郭嘉は劉表を袁紹同様に優柔不断だから動かないと見て、曹操に北征を敢行させた。郭嘉は曹操の北征に従軍したが、凱旋後に38歳の若さで死去した[3][4]

人物像[編集]

郭嘉が優秀な参謀であることを物語る逸話がある。曹操は郭嘉の死の翌年、孫権を討つために南下して赤壁の戦いで大敗した。この時曹操は「奉孝が生きておれば、こんな目にはあわなかったろうに」と嘆いたという[4]。また智謀には優秀でも素行は褒められたものではなかったようで、たびたび陳羣によって弾劾されたりしているが、本人は特に気にしたりせず、曹操も信任厚い参謀であったため取り上げることは無かったという。一説にその若死にはこの素行の悪さによる不摂生とする説もある。

脚注[編集]

  1. a b c 伴野朗『英傑たちの三国志』、P41
  2. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P42
  3. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P43
  4. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P44

参考文献[編集]