曹沖
曹 沖(そう ちゅう、196年 - 208年)は、中国の後漢末期の武将。字は倉舒(そうじょ)[1][2]。父は曹操。同母弟は曹宇。異母兄に曹昂、文帝、曹彰、曹植らがいる。
生涯[編集]
曹操と環夫人の間の長男で、幼少時から聡明で知られ[1]、5、6歳の時に既に大人を凌ぐ知力を有していた[2]。それを物語る逸話が幾つかある。
孫権から曹操に対して像が贈られると、その体重を計る方法はないかと曹操が尋ねた際に「像を船に乗せ、水面より沈んだところに印をつける。像を降ろした後で印をつけたところまで石を乗せ、ひとつひとつの石の重さを計ればよい」と答えたという[1][2]。また、曹操の馬鞍が鼠にかじられて処罰されそうになった倉庫係に3日後に自首するように命じ、自分の着物に刀で鼠にかじられたような穴を開けて気落ちした表情をしながら曹操の下に訪れ、その表情を見た曹操がどうしたのか尋ねると「世間では鼠が衣服をかじると不吉なことが起きると言います」と述べ、曹操は「そんな迷信を気にする事は無い」と答えた[1]。それから倉庫係が自首してくると「側にある子供の衣服がかじられるのに、柱にかけてある鞍など尚更」と許したという[1]。
曹沖は聡明なだけでなく仁愛にも溢れ、罪人を見かけるたびに罪状を調べ直し[3]、無実とわかると釈放するなど[3]刑罰から救った者は数十人に及んだ[1]。曹操は曹沖を溺愛し、後継者にしたいと考えていたが208年に曹沖は病気のために死去した[1][3]。享年13[1][3]。
曹操は曹沖の死去を深く悲しみ、同時期に亡くなった甄氏の娘を娶らせて結婚式と葬式を同時に行なったという[1]。曹操は曹丕に対して「これはわしの不幸じゃが、お前にとっては後継者になれる幸せじゃ」と皮肉を言った[1]。曹丕も「曹沖が生きていたら、わしは天下を支配できなかった」と述べたという[1][3]。没後に鄧哀王と諡された[3]。
『三国志演義』には登場しない。
ただ、長生きしても曹沖によく似ているのが司馬攸であり、長命だった場合は異母兄の曹丕と対立して失脚させられていた可能性もある。