夏侯淵
夏侯 淵(かこう えん、? - 219年1月)は、中国の後漢末期の武将。字は妙才(みょうさい)[1]。従兄は夏侯惇。正妻は曹操の妻の妹なので曹操は義兄にあたる。甥は夏侯尚、夏侯儒。子は夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。姪に張飛の妻。孫に夏侯績、夏侯駿、夏侯荘。曾孫は夏侯湛、夏侯淳、夏侯琬、夏侯瑫、夏侯謨、夏侯總、夏侯瞻、夏侯光姫、夏侯褒。なお長男の夏侯衡は曹操の姪(弟の娘)と結婚して曹操から寵愛されている[2]。
生涯[編集]
豫州沛国譙県の出身[1]。曹操の挙兵から付き従った歴戦の勇将で、徐州、兗州、豫州の平定に功があった[1]。官渡の戦いで曹操が袁紹を破った時、曹操軍は食糧が乏しかったが、夏侯淵は食糧が絶えることのないよう輸送に功を立て、曹操軍の勢いは保たれた[1]。
涼州で馬超が反乱を起こした際、夏侯淵は戦勝を収めて関中の平定に功を立てた[1]。夏侯淵の妻は曹操の妻の妹であり、長男の夏侯衡は曹操の弟の娘を娶ったため、曹操からは寵愛され重用された[2]。しかし夏侯淵は武勇に優れていたが血気にはやるところがあったため、曹操はいつも「指揮官たる者、臆病な時もなければならない。勇気だけを頼みにしてはならない。指揮官は当然、勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は知略を用いよ。勇気に任せることしか知らないならば、ひとりの男の相手にしかなれないぞ」と戒めていた[1][2]。
だが曹操の戒めは生かされなかった。219年1月、劉備の漢中攻略の戦いの際、漢中防衛の主将として対峙した。劉備は夏侯淵の陣に火攻めを主とした夜襲をかけた[2]。この時、東を張郃が、南を夏侯淵が軽装の兵を率いて守っていた[2]。劉備が張郃の陣を破ったため、夏侯淵は自らの兵力の半分を割いて張郃の救援に当たらせたがこれは罠であり、急遽反転した劉備軍に兵力の減少した南が攻められ、夏侯淵は戦死した[2](定軍山の戦い)。
夏侯淵が登場する作品[編集]
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