張魯

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張 魯(ちょう ろ、? - 216年)は、中国後漢末期の五斗米道(後の正一教)の指導者で群雄公祺(こうき)[1]

祖父張陵祖母は雍氏(または孫氏、張陵の妻)。張衡は盧氏(または陳氏)。姑は張文姫(字は文姫、名は不詳、張衡の姉)・張文光(字は文光、名は不詳、張衡の妹)・張賢(字は賢姫、張衡の妹)・張芝(字は芳芝、張衡の妹)。弟は張衛張愧(字は公仁、名は張傀とも)・張徴。姉妹は張玉蘭(張衡の娘)。子は張富ら10人と女子1人(曹操の子・曹宇の妻)。

生涯[編集]

豫州豊県(現在の江蘇省徐州市豊県)の出身。父の跡を継いで五斗米道の教主となり、益州牧の劉焉に仕えて督義司馬に任命され、別部司馬張脩と共に漢中郡太守蘇固を攻撃するが、張魯は張脩を殺害してその軍勢を奪い取り、漢中郡を自ら支配化に置いた。194年に劉焉が死去して息子の劉璋が跡を継ぐと、張魯は劉璋に従わず対立したので、劉璋によって人質の母親と弟を殺害される。その後、劉璋軍による漢中郡侵攻を受けるが、張魯は常に撃退した[1]

張魯は自らを「師君」という最高権威者を号し、漢中郡に長史を置かずに祭酒と呼ばれる道術を授けられた者を置いて支配した。祭酒とは一団の信者を統率し、義舎を設けて米や肉を置き、旅人に食べさせたが必要以上に貪る者には妖術で病気をもたらしたとされ、また規則に違反した者も3度までは許されたという。5斗の米をお布施として領民から取り立て、その米で私腹を肥やすのではなく社会的扶助に使うという善政を行なった[1]

後漢王朝は張魯の独自支配を黙認し、鎮民中郎将漢寧郡太守に任命して貢物を献上する義務だけを課した[1]

211年、曹操の部下である鍾繇が張魯を征伐しようとしたが、涼州馬超韓遂らが反乱を起こしたので断念し、そちらの反乱鎮圧が急務となる。馬超は敗れて関西の数万の家族を連れて張魯の下に逃げ込み、この時に馬超に通じた劉雄鳴程銀侯選らも張魯の下に逃げ込んで来る。馬超が曹操に対して再挙しようとした際には張魯も協力して援軍を出したが、曹操に敗れて馬超は再度逃げ込んで来るが、やがて張魯の下に居づらくなって劉備の下へ帰順した[1]

215年、曹操が漢中郡に侵攻を開始すると張魯は曹操に降伏しようとしたが、弟の張衛が反対したため陽平関で抗戦することになる。しかし張衛は曹操に敗れ、張魯はこれを聞いて再び降伏しようとするが、主簿閻圃が「抵抗した上で降伏したほうが曹操から高く評価される」と言われて、巴中に逃亡した。この際、宝物や財貨の入った蔵を「国家の物」として焼き払わず封印して立ち去ったため、曹操からさらに高く評価されることになった張魯は、降伏後に曹操から賓客の礼をもって迎えられた上、侯に取り立てられ1万戸を与えられた。張魯の5人の子も列侯に取り立てられ、娘は曹操の9男・曹宇に嫁いだ[1]

陶弘景の『真誥』第4巻によると、張魯は降伏した翌年に死去して埋葬されたが、259年に水害で棺が開いた時には屍骸は腐敗しておらず、生きているようだったと記録されている。

三国志演義』では、曹操に対抗するために自ら漢寧王を称し、益州に侵攻しようとするなど史実と異なり強欲な君主として描かれている。馬超らが亡命して来た際、家臣の楊松の讒言を聞き入れて馬超を劉備に帰順させるように追い込んだり、曹操との戦いでも龐徳の善戦にも関わらず楊松の讒言を聞き入れて自ら敗北に追い込むなど、愚かな人物として描かれている。最後は楊松の進言を容れて自ら曹操軍と戦おうとしたが、部下が戦意を失って逃亡し続けたので城に戻る。しかし留守を預かっていた楊松によって城門を開けられず立ち往生し、曹操に結局降伏する[1]。この際に史実同様に厚く取り立てられている。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 小出『三国志武将事典』P163

参考文献[編集]