袁尚
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袁 尚(えん しょう、? - 207年9月)は、中国の後漢末期の武将・群雄。字は顕甫(けんほ)[1]。父は袁紹。母は劉氏。兄は袁譚・袁煕。従兄弟は高幹。
生涯[編集]
袁紹の末子[1]。武勇があり美貌に溢れていた事から父に愛され、末子でありながら後継者にしようと袁紹は考えていた[1]。202年に袁紹が死去した際には後継者が指名されておらず、そのため袁尚を支持する審配や逢紀らは袁譚を支持する郭図・辛評との対立から袁尚の後継を強行し、袁尚はこの際に父の側妾の一族を皆殺しにしている[1]。当初、兄の袁譚と後継者の地位を巡る争いでは優勢に立つが、袁譚が曹操に降伏してその援助を背景に巻き返してくると一気に押されるようになり、やむなく袁尚も曹操に降伏しようとしたが拒否されたため中山に逃亡[1]。ここも袁譚に攻められて幽州刺史であった袁煕を頼った[1]。しかしここでも袁煕の部下であった焦触・張南に裏切られて袁煕と共に鳥丸を頼って逃げ延びる[1]。しかし曹操が鳥丸征伐を行なうに及んで再び敗れ、遼東の公孫康を頼った[1]。
袁尚は公孫康を殺して兵力を奪い取ろうと目論んだが、公孫康は袁尚らを匿うのは献帝に申し訳ないと考えて謀殺し、その首を曹操の下に届けた[1]。
『三国志演義』では徐晃配下の史渙を討ち取るなど武勇に優れた勇士として描かれるが、その反面で自信家で思慮の少ない人物として描かれている。自分の武勇を頼りに張遼と一騎討ちして大敗したり、この敗北を聞いた父が昏倒して亡くなる設定になっている。その後は史実とほぼ同じである。