曹植

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顧愷之「洛神の賦図」より

曹 植(そう しょく、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家武将文学者である。子健(しけん)[1][2]。魏の皇族で、魏の陳王に封じられ、であったことから陳思王(ちんしおう)とも呼ばれる。李白杜甫以前における中国を代表する文学者として「詩聖」の評価を受けた。才高八斗八斗の才)・七歩の才語源建安文学三曹の一人。父は曹操。母は卞氏で、曹操と卞氏の間の男子としては3男。異母兄に曹昂曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔琰(兄の娘))。子は曹苗曹志・女子2人。

生涯[編集]

代『三国志演義』より

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身[1]。曹植は後世には政治家や武将としてよりは詩人として高い評価を受けてその名を知られているが、わずか10歳余りにして『詩経』『論語』『楚辞』など数十万言を暗誦できるほど文才に長けていた[1]。曹操はある時、曹植の作り上げた文章を見て「人に書いてもらったのか?」と代筆を疑って尋ねたが、曹植は「私が言葉を語れば議論となり、筆を取れば文章となります。是非目の前でお試しください」と答えたという[1][2]。曹操が銅爵台の落成式を行なった際、息子らにそれぞれ賦を作らせたが、その中で曹植の作品は最も優れており、曹操は曹植の文才を大いに愛するようになった[1]211年に平原侯に封じられ、214年臨葘侯に転封される[1]。この間、曹操から孫権討伐の際の留守居として冀州鄴県の守備も任されている[1]

曹操は自らの後継者に最初は寵愛していた曹沖を考えていたが、曹沖は208年に早世したので、次に後継者にその文才を大いに愛した曹植を考えるようになった。曹植には丁儀丁廙楊脩ら文人派の要人が側近としてその後継を支持するようになり、曹丕を支持していた司馬懿呉質陳羣らと激しく争うようになった[1]。だが、曹植は自由気ままな性格の上、酒に節度が無い性格だったためか、曹操は217年になって曹丕を王太子に封じて後継者争いに敗れた[1]

219年劉備の命令で荊州関羽が北上して曹仁が包囲攻撃された際、曹操は曹植を援軍の将として派遣しようとした[1]。しかし、曹植は酒に酔いつぶれて救援に赴くことができなかったので曹操から疎まれるようになったという[1]。これに関して『魏氏春秋』では曹植が援軍に赴いて武功を立てることを恐れた曹丕が曹植に無理やり酒を飲ませて酔い潰させたことを紹介している。また、『世語』によると曹丕によって曹植の側近である楊脩が曹植に入れ知恵して曹操の質問に対する模範解答を作っていたことが曹操に密告され、曹操はこれにより楊脩を憎悪しその才能を恐れて誅殺してしまったという。

220年に曹操が死去すると曹丕が跡を継いで魏王になる。すると曹植に対する曹丕の報復が始まり、まずは側近の丁儀・丁廙兄弟が誅殺された[1]。次いで曹丕は曹植をも殺そうとしたが、母の卞氏が曹丕に取り成したため、曹丕は曹植を安郷侯に格下げするに留めた[1]。この際に『世説新語』では曹丕は曹植の才能を恨んでいたので、七歩のうちに詩を作るように命じ、作れなければ処刑するという難題をふっかけたという。そこで曹植は曹丕に題名を望み、曹丕は「兄弟」を題名としたがこの文字を使わずに詩を作るように命じ、曹植は「豆の詩」(豆を煮るのに豆殻を燃やし、同じ父親より生まれた兄弟が争うさま)を詠んだという。曹丕はこれで自らの行ないを深く恥じ、曹植を処刑することを取りやめたとする説を紹介している。

しかしその後も曹丕(文帝)の報復は続き、222年には自らの後継を支持していた楊俊が誅殺され、223年には自らと親しかった同母兄の曹彰が死去した。曹植はその後も6度も国替えをさせられ、任地からたびたび中央に招聘して国政に参加させてもらえるように上奏していたが取り上げられることはなく、不遇のまま232年に死去した[1][3]享年41。

三国志演義』ではほぼ同じように高名な詩人として紹介されているが、銅雀台(史実の銅爵台)で曹植が作った賦で、諸葛亮赤壁の戦いの時に周瑜に対して曹操の傍に周瑜の美貌の妻である小橋を置きたいとする件を持ち出して開戦に踏み切らせるように利用されている[1]。曹操の死後は酒に酔いつぶれてその葬儀に参加しなかったので曹丕から詰問の使者を送られ、その使者を追い返したので曹丕は激怒して許褚に命じて逮捕させ、「七歩」の難題をふっかけるように創作されている[1]。その後は見事な作品を作って曹丕もその才能を認め、地方に飛ばすだけで助命した[1]。曹丕の死後、甥の曹叡(明帝)が即位すると馬謖により司馬懿を失脚させるために謀反の噂が流されたが、その際に曹植が司馬懿に担がれて帝位を狙っているというデマが流されている[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小出『三国志武将事典』P178
  2. a b 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、211頁
  3. 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、212頁

参考文献[編集]