荀彧
荀 彧(じゅん いく、163年 - 212年)は、中国の後漢末期の政治家。字は文若(ぶんじゃく)[1]。
生涯[編集]
曹操に仕えるまで[編集]
豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の出身[1]。荀氏は名門であり、叔父にあたる荀爽は特に俊才の誉れが高く三公にまで登り詰めたエリートであった[1]。荀彧は人並み外れた立派な容姿をしていて幼少の頃から「王佐の才がある」と言われた[1]。孝廉に推挙されて中央で官職に就いたが、董卓が中央で政権を掌握するとそこから逃れて故郷に戻り、戦火を避けて冀州に赴いて袁紹に仕えたが、袁紹の器量に見切りをつけてそこから離れ、191年に曹操に仕えた[1]。
曹操の重臣[編集]
曹操は荀彧が来たという知らせを受けた時昼食をとっていたが、嬉しさの余り思わず箸を取り落して荀彧の手を握り、「そなたはわしの子房である」と述べたという[1]。曹操は当時、長安で権勢を極める董卓についてどうしたものかと荀彧に尋ねると「董卓の暴虐は余りに酷過ぎ、必ず禍乱の内に命を落とすでしょうから問題ないでしょう」と述べた。その言葉通り、董卓は192年に呂布、王允らによって暗殺された[2]。
董卓の死後、世は群雄割拠となり、献帝を擁立するかどうかが焦点となった。曹操陣営では曹仁が山東方面の平定がならず、献帝を擁立するのは時期尚早であると反対していたが、荀彧は春秋時代の晋の文公が東周の襄王を都に戻したこと、前漢の高祖が項羽に殺された義帝のために喪服をまとい、両者ともそのために天下の人々を心服させた故事を出し、さらに董卓の乱以来乱れに乱れた朝廷を立て直して、献帝を奉じることで大義名分を得て諸侯に号令する立場に立つように進言する、いわゆる献帝擁立を積極的に勧めた。同時期、袁紹陣営でも献帝を擁立しようとする動きがあったが、曹操は荀彧のおかげで先んじることができた[2][3][4]。
200年、官渡の戦いが起こると弱気になった曹操を励まし、後方で懸命に支えた。そのため、最終的に曹操は勝利した[5]。
また、この時期までに曹操は荀彧の他に多くの人材を得ている[5]。荀攸、郭嘉、鍾繇、郗慮、陳羣、司馬朗、司馬懿、杜襲、杜畿、華歆、王朗らである。これらは全て荀彧により見出された者達であった。
曹操との対立と最期[編集]
曹操と荀彧の信頼関係に翳りが見えだしたのは204年であり、この年に曹操は九州を設置することを考えたが、荀彧は古代の制度を復活させると冀州牧である曹操の支配範囲が広くなるため覇者になろうとする者がやってはならないと反対し、曹操も断念した[5]。
赤壁の戦いでは留守の北方を守っていて曹操の南下に従軍しなかった[5]。212年、曹操は魏公になろうとした[5]。荀彧は反対し、病気として曹操に出仕しなくなった[5]。曹操は同年、孫権征伐のために軍を率いて南下した[5]。
ここからの説は2つある。曹操は荀彧を陣中に呼び出して死を命じたというものである[5]。もうひとつは病気と称していた荀彧の下へ曹操から見舞いが贈られ、蓋を取ると中は空っぽであり、全てを悟った荀彧は毒を仰いで自殺したというものである[6]。享年50[6]。
荀彧は死に臨んで全ての文書を焼却する抵抗を見せた。このため、荀彧の鬼謀神算の数々は後世に伝わらなかったという[6]。
人物像[編集]
後漢を慮っていたのかどうか、荀彧のそのあたりの評価は不明であるが、范曄は『後漢書』において荀彧を漢臣として立伝している。
子孫[編集]
- 荀惲 - 長男で、字は長倩。虎賁中郎将。若死。
- 荀俁 - 3男で字は叔倩。御史中丞。若死。
- 荀詵 - 字は曼倩。大将軍従事中郎。若死。
- 娘 - 陳羣の妻、陳泰の母。
- 荀顗 - 字は景倩。司空、後に西晋の太尉。
- 荀粲 - 7男以降で字は奉倩。妻は曹洪の娘。29歳で逝去。