曹参
曹 参(そう しん、? - 紀元前190年)は、秦末期から前漢初期にかけての武将・政治家。姓は曹氏。諱は参、字は敬伯(けいはく)。前漢の第2代目の相国となった。子に曹窋がいる。爵位は平陽侯。諡は懿侯。
経歴[編集]
泗水郡沛県の出身で、同地の獄吏(刑務所の事務官)を務めていた。蕭何はそのときに主吏(郡県の属吏)であったという。
紀元前210年に始皇帝が崩御し、紀元前209年から陳勝・呉広をはじめとした反乱が各地で発生すると、曹参は蕭何と共に劉邦の挙兵に加わって各地を転戦して武功を挙げ、秦滅亡に大きく貢献した。秦滅亡後、覇権を項羽が掌握すると劉邦は漢王に封じられ、曹参も劉邦に従って漢中に入り、これまでの功績により建成侯に封じられて将軍に任命された。劉邦が項羽に対して挙兵すると、項羽が劉邦に備えて置いていた章邯ら3秦王をことごとく破って平定するのに功績を挙げる。さらに東進して諸侯や項羽の軍勢との戦いでいずれも功績を挙げた。
紀元前202年に劉邦が覇権を掌握すると、これまでの功績を賞されて斉の相国に任命され、さらに平陽侯に封じられた。劉邦は皇帝に即位すると疑心暗鬼になって多くの重臣を殺したが、曹参は疑われることはなかった。また、英布や陳豨の反乱鎮圧でいずれも功績を挙げている。
曹参は斉の相国の地位にあること9年であったが、その間に黄老(黄帝・老子)の道を信奉して清浄無為の治世を心がけて民力休養に励んだので、斉はよく治まって曹参は民衆から慕われたという。
曹参は蕭何と古い付き合いであったが、あまり仲が良くなかった。紀元前193年に蕭何が死の床についた際、劉邦の跡を継いでいた恵帝(劉盈)は蕭何を見舞って、蕭何亡き後の相国を誰にするべきかを下問した。蕭何はこれに対して答えず、恵帝は曹参はどうだろうと逆に尋ねると、蕭何は即座に賛成したという。こうして蕭何が死去すると、曹参はその後を継いで相国となり恵帝を補佐したが、曹参は蕭何が生前に定めていた法律を改変すること無く執行したという。
相国にあること3年後の紀元前190年に死去した。
人物像[編集]
『史記』の著者である司馬遷は曹参の功績は認めているが、やはり蕭何には及ばないと見なしており、司馬遷の軍配は蕭何が上としている。『史記』曹相国世家に引かれた歌がある。それによると蕭何・曹参は前漢創業の功臣中の功臣であり、当時の人々が「蕭何、法を為(つく)り、あきらかなること一を画(えが)くが如く、曹参これに代り、守りて失うなし」と歌ってその功績を称えたという。
曹参の死からかなり後の唐の時代、高適は「黄河を渉る途中の作」詩の中で「若し蕭(何)・曹(参)を学ばしむれば、功名、当に朽ちざるべし」と述べている。