袁紹
袁 紹(えん しょう、? - 202年)は、中国の後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)[1]。従兄弟か異母兄弟に袁術。高祖父は袁安。曾祖父は袁京。祖父は袁湯。父は袁成または袁逢。叔父に袁隗。従兄弟(異説あり)に袁基・袁術。妻に劉氏。子に袁譚・袁煕・袁尚。袁買も袁紹の実子とする説があるが定かではない。
後漢の大将軍・何進と結託して宦官勢力を滅ぼす。董卓との権力抗争に敗れて洛陽から逃れ、諸侯が反董卓の連合軍を挙げると盟主となる。以後、河北で勢力を拡大し、公孫瓚を滅ぼして河北四州を支配する大勢力者となる。華北の覇権をめぐって曹操と雌雄を決すべく圧倒的兵力・物量をもって南下するが、官渡の戦いで敗北してしまう。その敗戦から2年後に病死し、袁氏内部で内紛が起こって袁紹の死からわずか5年でその勢力は消滅した。
生涯[編集]
河北の覇者[編集]
豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身[1]。袁氏は4代続いて三公を出すという名門中の名門の一族で、袁紹はその御曹司であった[1]。袁紹は堂々として威厳のある風貌をしていたが、身分にこだわらずよく士人に対して下手に出たため、大勢の人が彼の下に身を寄せた[1]。また、袁紹は大らかな性格であった[2]。若い頃は後に敵となる曹操とは不良仲間で、曹操と女をめぐって遊んだりもしている。
郎から濮陽の長となり、さらに大将軍である何進の虎賁中郎将となり、西園八校尉のひとつである中軍校尉となる[2]。189年、何進に宦官2000人の殺害を働きかける。何進はなかなか応じず、そのうちに何進が宦官に反抗されて謀殺されたので、激怒した袁紹は宦官を皆殺しにした。しかしその混乱をついて董卓が首都の洛陽を制圧した。曹操は袁紹に董卓の兵力が不十分な内に奇襲をかけて董卓を滅ぼそうと画策したが袁紹は応じなかった。董卓は袁紹を抱き込もうとしたが、袁紹は洛陽から脱出して冀州に逃れた。董卓は名門袁一族の勢力を考えて袁紹を渤海郡太守に任命する事で懐柔した。
190年、諸侯が反董卓の連合軍を挙げると盟主となるが、戦闘を担当したのは孫堅や曹操であり、袁紹は他の諸侯らと酒宴を続けた。連合軍が解散すると韓馥から冀州を乗っ取った。さらに董卓が擁立した献帝に代わる皇帝として皇族で幽州刺史の劉虞を擁立しようとしたが、袁術の反対を受けて断念している。
192年4月に董卓が暗殺された後、諸侯は袁紹派(曹操・劉表)と袁術派(孫堅・孫策・陶謙・公孫瓚・呂布)らに分裂して抗争した。袁紹は193年に劉虞を殺したことを大義名分にして幽州で公孫瓚と争う。公孫瓚は一時は袁紹を追い詰めたが袁紹の果敢な反撃に界橋の戦いで一敗地に塗れ、以後は押されていく。易城に籠城して立て籠もるが、袁紹の攻撃の前に遂に199年に公孫瓚は滅んだ。この結果、幽州・冀州・青州・并州の4郡を支配する大勢力となった。
この公孫瓚との戦いの間に袁術派は孫策が独立し、陶謙は死去し、袁術は皇帝を自称して自滅するなどして袁術派は消滅。その袁術派との戦いで勢力を大きく伸ばした曹操が中央部に兗州、豫州を制圧して華北南部の支配権を握り、華北の覇権をめぐって袁紹と曹操は激突することになる。
華北の覇権[編集]
袁紹の参謀・田豊は献帝を奉戴して天下に号令するよう進言していた。袁紹はこれを容れていたが、曹操が徐州の劉備を討伐するために遠征して都が手薄な時、息子の袁尚の病気を理由に派兵をしなかった。このため劉備は曹操に敗れて徐州を追われた。
200年、袁紹は曹操との対決姿勢を明らかにして南下した。この時曹操軍は袁紹軍より寡兵だった。曹操は周囲を孫策や劉表に包囲されており、また曹操の領土は相次ぐ戦乱で兵力や食糧が少なく、袁紹はその点で優位だった。袁紹は曹操の部下・劉延が守る白馬(現在の河南省滑県)を攻めた。袁紹軍が有利だったが、当時曹操に身を寄せていた関羽によって袁紹配下の勇将・顔良が斬られた[2]。
次は両軍が官渡(現在の河南省中牟)で激突した。袁紹は高い櫓を築いて高い土山を造って曹操軍に対して矢を浴びせた。この戦術で曹操軍は全員楯をかぶり恐れおののいたが、曹操は「発石車」を造って袁紹軍の櫓目がけて発射し打ち砕いた。袁紹は地下道を掘って曹操軍を襲撃しようとしたが、曹操は陣内から長い塹壕を掘って対抗した。さらに曹操は奇襲部隊を出して袁紹軍の輸送車を襲撃して撃破した。
とはいえ基礎国力は明らかに袁紹が上で、長期戦に及ぶにあたり持久力に乏しい曹操軍は兵糧の欠乏が深刻になった[3]。ここで参謀の沮授は別働隊を派遣して曹操の糧道を断ち切るように進言したが袁紹は聞き入れず、淳于瓊に1万の兵を与えて袁紹軍の兵糧庫である鳥巣を守らせた。この時、袁紹の部下である許攸が曹操に寝返って鳥巣の場所を曹操に教えたため、曹操は本陣を曹洪に守らせて自ら5000騎を率いて鳥巣に夜襲をかけた。これにより淳于瓊は戦死し、戦局は曹操に傾いた。袁紹軍は総崩れとなり、冀州に敗走した。
この戦いで袁紹は顔良・文醜を失い、高覧と張郃らが曹操に降り、そして沮授は曹操に捕縛されて厚遇されるも袁紹の下に戻ろうと脱走したため殺され、田豊は讒言を真に受けた袁紹により処刑された。『献帝伝』では沮授は袁紹が圧倒的優位だが驕りがあり、さらに連戦で味方は疲弊しているのに南下しても敗れるのは明らかだと見通していたが、まさにその通りとなった。袁紹は曹操軍に匹敵する優れた将軍や参謀の多くをこの戦いで多数失い、袁紹は覇権を握れなかったのである。とはいえ、袁紹の生存中は曹操も河北に北上しようとはしなかった。
最期[編集]
袁紹が冀州に敗走すると、冀州の各城が袁紹に対して反乱を起こした。袁紹はそれらを全て撃破し再平定する[4]。
だが202年、敗戦の憂慮から袁紹は発病して死去した[4]。享年は不明だが、曹操と不良仲間として徒党を組んでいたから曹操と同じ48歳くらいだったと推測される。
袁紹は生前、稀に見る美男子の3男・袁尚を溺愛して後継者にしようとした[4]。ただし袁紹は死ぬまでそれを明確にすることなく、後継者指名もなかった。このため袁紹の死後、袁氏勢力は長男の袁譚と3男の袁尚に分裂する。家臣らもそれぞれ両派に分裂して骨肉の争いを繰り返し、それを見た曹操が北上を開始し、袁譚と手を結んで袁尚を破り、その後に袁譚を葬ってさらに北上。逃げた袁尚も葬り、こうして袁氏は各個撃破されて自滅した。
人物像[編集]
袁紹は智謀はあるが決断力の無い優柔不断な人物と評される事が多い。曹操の参謀・賈詡が後に曹操が自分の後継者に長男の曹丕か三男の曹植かどちらを選択するか迷っている時、「袁紹父子のことを考えておりました」と述べた事例があるように、優柔不断なところが強調されている人物である。
ただし一時は曹操を上回る領土を支配し、さらに多くの優れた人材を用いた事跡は決して無視できるものではなく、三国志関連の小説や漫画、ゲームで言われるような暗愚・凡庸な人物では決してないのも事実である。