夏侯尚
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夏侯 尚(かこう しょう、? - 225年)は、中国の後漢末期から三国時代の魏の武将。字は伯仁(はくじん)[1]。妻は徳陽郷主(曹真の妹)。子は夏侯玄。伯父は夏侯淵。従父は夏侯惇。
生涯[編集]
夏侯淵の族子で、曹操が冀州を平定する際に軍司馬として従軍する[1]。後に黄門侍郎に昇進し、曹操の息子の曹彰と共に代郡で起きた蛮族の反乱を平定した[1]。
220年に曹操が死去すると跡を継いだ曹丕に仕え、上庸郡にいた劉封を徐晃や孟達と共に襲撃して勝利し、3郡9県を平定し、征南大将軍に昇進する[1]。222年に文帝の命令で呉を攻め、江陵を包囲して諸葛瑾の軍勢に火攻めをかけて撃退するが、軍内で疫病が流行ったために撤退した[1]。この戦功により領邑1900戸に加増されて荊州牧に昇進した[1]。当時、荊州は戦乱で荒廃が激しかったが、夏侯尚は上庸から道路を建設して軍を進めて付近の蛮族や山岳の住民らを帰順させた[1]。224年に昌陵郷侯となる[1]。
225年、夏侯尚はお気に入りの愛妾に夢中になり、曹氏一族の正室をないがしろにした[1]。これに文帝は怒って愛妾を殺害[1]。すると夏侯尚は悲嘆のあまり病気になり、埋葬した墓から愛妾の遺体を掘り起こしてその顔を見るほどになった[1]。文帝はさらに激怒したが処罰はせず、そのうち夏侯尚は重態に陥って死去した[1]。跡を息子の夏侯玄が継いだ。
『三国志演義』では夏侯惇の甥とされ、漢中攻防戦では蜀の黄忠に対するやられ役として描かれるばかりではなく、捕虜になって陳式との人質交換の際に黄忠から矢で射られる無様な姿が描かれている。呉を攻めた際にも史実と異なり、諸葛瑾・陸遜らに大敗している。