孫権

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
孫権.jpg

孫 権(そん けん、182年 - 252年)は、中国三国時代の初代皇帝(在位:229年 - 252年)。仲謀(ちゅうぼう)[1]。父は孫堅で次男。母は呉夫人。兄に孫策。弟に孫翊孫匡孫朗。妹に孫夫人。諡号は大帝(たいてい)。

生涯[編集]

若い頃[編集]

孫権は顎が張って口が大きく、瞳にはキラキラした光があったという[1]。孫堅は生まれたばかりの孫権を見て、高貴な位に昇る相であると喜んだという[1]。性格は朗らかで度量が広く、思いやりが深く決断力があった[1]。男伊達を好んで自分の下に人材を養い、やがて名を知られるようになるとその名声は父や兄に匹敵したという[1]。計略を練る時には常に参画した[1]

孫策は賓客を招いて宴会を開いたが、その際に孫権のほうを振り向くと「これらの諸君は、皆お前の武将である」と言うのが常だったという[1]。孫策は孫権の意見を高く評価し、政務に関しては自分は弟に及ばないと自覚していた[1]

君主になる前の孫権の礼は簡略なものだったが、周瑜のみは率先して丁寧な礼をとったため、他の部下や賓客も孫権に対して臣下の礼を取るようになったという[2]。また孫策の時代に県長などを務めているが、この際に会計を担当する呂範に借金を申し込んだが、呂範は主君の実弟だからと甘い顔を見せずに孫策に相談して許しを求めたという話もある[3]

孫権は肉親の縁が大変薄く、11歳の時に父を失い、19歳の時に兄を失った[4]。弟2人も若死にした。兄の死去により、その遺言に従って孫権は19歳で孫家軍閥の頭領となった。

孫権の統治[編集]

若い頃の孫権は他人の意見によく耳を傾け、有能な人物に大事を任せる度量があった。そのため孫権の周囲には兄時代の呂範や周瑜、呂蒙らの名臣をはじめ、諸葛瑾魯粛陸遜らの人材が次々と集まった[1]

208年、華北の覇権を掌握した曹操が大軍を率いて南下を開始する[4]。南下を開始した頃に劉表は病死し、荊州は戦わずして降伏した。このため、孫軍閥の家臣団は継戦か降伏かで意見が対立する。曹操が挑戦状を送りこんで来るに至って張昭ら降伏派の意見が優勢になったが、周瑜と魯粛のみは継戦を強硬に主張し、さらに劉表没後に夏口に逃れていた劉備同盟の申し入れもあり、孫権は遂に曹操との戦いを決意する。こうして行なわれた赤壁の戦いは、周瑜の奮戦と北方出身者が多数を占める曹操軍の軍中で疫病が流行りさらに水上戦に大変不慣れだったこともあって、孫権の勝利に終わった。この勝利により、三国鼎立の基礎が出来上がった。

その後、孫権は軍務に関しては一切を周瑜に任せ、周瑜は曹仁を破って荊州支配の足場を築いた。210年に周瑜が病死するとその遺言に従い後任に魯粛を指名し、魯粛に荊州問題を任せた。魯粛は期待に応えて関羽相手に一歩も引かず、劉備も遂に折れて荊州を孫権と分割することで和睦した。217年に魯粛は死去し、その遺言に従って後任には呂蒙を指名し、孫権は呂蒙の対劉備強硬策を容れて219年に関羽が曹仁を攻めるために北上している隙をついて江陵を奪取し、さらに曹操と手を結んで関羽を討ち取った。しかしそれと引き換えに呂蒙も同年に病死した。

この間、軍務は以上の3名に任せていた孫権だが、その間に彼は政務に励んでいた。赤壁の戦いが終わると拠点を京師(現在の江蘇省鎮江)に移し、自らに服従しない山越族の平定に従事した[5]。また江南は後の東晋時代と違ってこの頃はまだ未開地域であり、慢性的な人口不足で他領に進出しての「人狩」すら行なう必要性があったし、人口を密集させるための「街づくり」も不可欠だった。そのため211年に現在の南京に本拠を移すことを決め、212年に城を築いて建業と改名した。

関羽を殺したことは劉備の報復を招き、221年に劉備は大軍を率いて東征を開始する[6]夷陵の戦い)。孫権は陸遜に軍を預けて迎撃させる一方で、この隙をにつかれないようにするため、文帝に対して臣下の礼をとった。同年、孫権は本拠を鄂(現在の湖北省鄂州)に移し、地名を武昌に改めた。222年軍の陣営が長く伸びきったところを陸遜は火攻めをかけ、劉備は大敗して白帝城に逃げ込み、夷陵の戦いは孫権の勝利に終わった。

223年、劉備が死去すると孫権は蜀と正式に和睦し、呉蜀同盟が成立する。また魏の文帝からたびたび侵攻を受けるが、陸遜や徐盛らの活躍で全て撃退した。文帝没後は石亭の戦い曹休に勝利するなど反攻に転じたが、魏の防衛線は厚く一時的な成功はあっても最終的には全て魏により撃退されている。

229年、孫権は皇帝として即位し、首都を建業に戻した[7]。こうして正式に三国に皇帝が鼎立する三国時代となった。

老耄した孫権[編集]

このように若い頃から中年にかけては、国の運命を託すべき社稷の重臣になるべき人物を見抜いてよく使う度量の大きさ、機を見て臣従しまた自立する外交戦略の巧みさ、権力者にありがちな猜疑心が全く見当たらないことなど、この時期の孫権はまさに英邁な名君と言うべきであった。しかし230年代になると孫権はおかしくなりだした。

最初はやむを得ない部分もあった。前述しているが呉は人口不足に悩まされていた。そのため孫権は人口不足を少しでも解消するために遼東郡に興味を示した[8]。当時、この地域は公孫淵が支配していたが、この地域は民衆もそこそこおり、良馬を産する一帯だった。また、魏との対抗上から孫権は公孫淵との同盟を模索した。しかし張昭は遠隔地であり成功しないと反対し、その通りになった。孫権が派遣した使者は殺された。

本格的におかしくなりだしたのは60歳を迎える頃からである。孫権には7人の息子があり、皇太子には長男の孫登を指名していた。この孫登は非常に優秀で多くの人から慕われている人格者だったが、残念なことに241年に33歳で早世してしまった。ただし孫権にはまだ孫和孫覇といった優秀な息子がいた。孫権は242年1月に孫和を新しい皇太子に指名した。ところが同年8月、孫権は孫覇を魯王にして孫和と同じ宮殿に住まわせ、待遇も同じにした。これではどちらが皇太子かわからなくなり、孫覇の下に集まる家臣団も続出した。陸遜はこの状況を憂い、皇太子と王の間に歴然とした上下の違いをつけるべきと諫言した[9]。孫権はこれを聞き入れて二人の住む宮殿も別にしたが、もう手遅れだった。孫覇の下に集まった家臣団も将来があるから主君を皇太子にしようと画策し、ここに二宮の変が勃発したのである。

この変事に対して孫権は最初こそ孫和、孫覇の下に家臣団が往来することを禁止し、学問に勤めるように詔勅を出した。しかしそれぞれの派閥に属する家臣団にとっては自分の出世が関わっているからこれくらいで派閥抗争がやむわけがない。陸遜はこの抗争を鎮めるために孫権に諫言しようとしたが孫権は聞き入れず、陸遜は245年に憤死を遂げた[10]。他にもこの抗争で呉を支える優秀な人材の多くが非命に倒れた。その間、孫権は何も有効な手段を取ろうとしなかった[10]

250年、孫権はようやく解決に動いたが、その解決方法は最悪だった[10]。孫覇に自殺を命じ、孫和は皇太子から外してしまった[10]。そして孫権の晩年に生まれたわずか8歳の息子である孫亮を皇太子に指名した[10]。つまり優秀な息子2人を排除し、凡庸な息子を後継者にして、しかも多くの重臣を粛清したのである。

その2年後の252年、孫権は崩御した[10]。享年71[10]。跡は孫亮が継いだが、幼帝のため家臣が実権を掌握し外圧を招き、呉は急速に衰退してゆくことになる。

人物像[編集]

陳寿は孫権を次のように評価しているが、呉の滅亡の遠因は孫権の老耄にあったとしている。

  • 「孫権は身を低くして辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ、綿密に計略を練るなど、王・勾践と同様の非凡さを備えていた。万人に優れ、傑出した人物であった。さればこそ江南の地を我が物にし、三国鼎立をなす呉国の基礎を創り上げることができたのである。ただ、その性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行ない、晩年にいたってそれがいよいよ激しくなった。その結果、讒言が正しい人々の行ないを断ち切り、後嗣も廃され、殺されることになった。子孫たちに平安の策を遺して、慎み深く子孫たちの安全を計ったものとは言い難いであろう。その後代が次第に衰弱し、やがて国を亡ぼすことになる。その遠因が孫権のこうした行ないになかったとは言い切れないのである」

小説『三国志演義』においては曹操や劉備を手玉に取る外交戦略や人材をうまく使いこなす名君として描かれている。ただ演義では晩年の孫権の老耄に関しては一切が描かれず、崩御するまで名君として描かれているのみである。

宗室[編集]

父母[編集]

呉郡の出身。弟に呉景がいる。死後、皇帝に即位した孫権に武烈皇后と追号される。

后妃[編集]

  • 謝夫人(しゃふじん、生没年不詳)
会稽郡山陰の出身。呉夫人が選んだ女性で、孫権の最初の妻であると目される。後に徐夫人と反目し、孫権の寵愛も薄れて早世する。弟の謝承は記録に残るうち最も古い『後漢書』を執筆した。
  • 徐夫人(じょふじん、生没年不詳)
呉郡富春の出身。孫堅の妹の孫で父は徐琨。孫権に嫁ぐ前は陸尚陸康の孫)の妻だった。陸尚が亡くなった後、孫権が討虜将軍として呉郡に住んでいた頃に結婚し、孫登の養母となる。しかし、嫉妬深い性格から離縁され、孫権が本拠地を移した後も呉郡に住み続けた。孫登や群臣たちは彼女を皇后に就けるよう進言したが、孫権は拒んだ。孫権が帝位に就いた後病死した。
徐州臨淮郡淮陰の出身。歩隲の同族。孫魯班・孫魯育姉妹の生母。最も寵愛され、孫権は立后を望むも、群臣が孫登の養母である徐夫人を推していたために取りやめになった。しかし宮中では彼女は皇后と呼ばれ、死後孫権から正式に皇后の位を追贈された。孫権とともに蒋陵に葬られる。『建康実録』によると、練師(れんし)。
  • 王夫人(おうふじん、生没年不詳)
徐州琅邪郡の出身。孫和の生母。父は王盧九。息子の孫和が皇太子に立てられると、他の愛姫を皆外に出してしまった。孫魯班に疎まれ失意のうちに亡くなる。死後、孫皓によって大懿皇后の号を授けられる。
  • 王夫人(おうふじん、生没年不詳)
荊州南陽郡の出身。孫休の生母。孫和が皇太子に立てられると後宮から地方に出された。公安で死去。死後、孫休に敬懐皇后の号を授けられ、敬陵に改葬される。
会稽郡句章の出身。孫亮の生母。父は元役人だったが法を犯して死刑になっており、姉と共に官婢となって織室に居た所を偶々孫権の目に留まり後宮に召し上げられ孫亮を産み、亮が太子となった翌年(251年)立后された。生前に孫権の皇后となった唯一の人物。
彼女は嫉妬深い上に媚びが上手く、袁夫人(袁術の娘)ら多数の妃を陥れ殺害した。孫権が重体になると、前漢王朝の呂后が夫高祖(劉邦)の死後に政権を掌握した経緯を孫弘に命じて調べさせた。しかし宮女たちに憎悪され、翌年2月、看病疲れで寝込んでいる間に宮人達が皆で彼女を縊殺、蒋陵に合葬された。

そのほか、袁夫人、謝姫(孫覇の母)、仲姫(孫奮の母)、趙夫人(『三国志』には名が見えないが、九宮一算術で有名な趙達の妹で六朝期の画家とされる。刺繍が得意で「呉宮の三絶」との言葉を生んだ)といった名が見える。

[編集]

男子
女子
  • 孫魯班(そんろはん、生没年不詳)
  • 孫魯育(そんろいく、? - 255年
    通称を朱公主、字は小虎。朱拠に嫁いだことから朱公主と呼ばれた。後、劉纂に嫁ぐ。255年、孫峻打倒のクーデターに失敗し、首謀者のひとりとして殺された。

そのほか、劉纂に嫁いだ娘がいる。

孫権が登場する作品[編集]

ゲーム

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 伴野朗『英傑たちの三国志』、P102
  2. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P117
  3. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P151
  4. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P103
  5. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P106
  6. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P107
  7. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P109
  8. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P108
  9. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P110
  10. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P112

参考文献[編集]