文醜

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文 醜(ぶん しゅう、? - 200年)は、中国後漢末期の武将袁紹家臣

生涯[編集]

顔良と並ぶ袁紹軍の勇将で、199年に顔良と共に将帥に任命される[1]200年白馬の戦いで勝利した曹操軍が撤退を始めた際、曹操は輜重隊を前にした[1]。そのため文醜は騎兵の隊長として劉備と共に5000から6000の兵を率いて追撃したが、輜重を見ると兵士達は争って奪い合いを始めて陣形が乱れ、そこに曹操軍が襲撃して文醜は乱戦の最中に討ち取られた[1]

三国志演義』では身の丈8尺(約184センチ)の大男で牛のような容貌の持ち主とされ、顔良とは義兄弟の仲にあったとされる。公孫瓚との戦いで大活躍し、公孫瓚を後一歩の所まで追い詰めるが趙雲の妨害により果たせなかった。それでも趙雲と互角の戦いをしている。官渡の戦いでは顔良が討たれたため仇討ちとして出陣するが、史実通り巻き餌の策に引っかかって陣形が乱れる。それでも張遼徐晃を退けるなど凄まじい武勇を発揮するが、関羽にはかなわず斬られてしまった(趙雲と互角に戦った文醜があっさり斬られているのは辻褄が少し変ではある)。

脚注[編集]

  1. a b c 小出『三国志武将事典』P104

参考文献[編集]