後漢

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

後漢(ごかん)は、25年から220年まで存在した中国王朝である。光武帝劉秀が前漢を再興して立てた。都は洛陽、後に長安、そして許昌に遷都が行なわれた。なお、前漢が首都を長安に置き、後漢は洛陽に置いたことから、前漢のことを西漢(せいかん)、後漢のことを東漢(とうかん)と呼ぶこともある。

歴史[編集]

建国と全盛期[編集]

8年に前漢が王莽に禅譲して滅亡した後、が成立した。しかし王莽は現状を無視した極端な復古政策を行なって短期間で統治は失敗し、各地で反乱が勃発する(呂母の乱赤眉の乱)。この新末後漢初の戦乱の中で23年に王莽は殺され、新は滅亡した。

代わって覇権を掌握したのは前漢の始祖である劉邦の9代目の孫にあたり、前漢の第6代皇帝景帝の皇子で長沙王の劉発の末裔である光武帝(劉秀)であった。劉秀は新末後漢初の戦乱で新軍との戦いで多大な武功を立て、新滅亡後は各地で皇帝を称した群雄を制し、25年6月に皇帝に即位し、元号を建武元年とした。建国当初はまだ各地に群雄が残っていたが、36年に蜀で自立していた公孫述を下し、後漢の天下統一は完成した。

後漢は光武帝の時代に基礎が固まり、57年2月に光武帝が崩御した後は息子の明帝が継承した。光武帝から明帝の時代にかけてが後漢の全盛期であり、この明帝の時代には班超が活躍したことで有名である。

相次ぐ幼帝と衰退[編集]

75年8月に明帝が崩御し、皇子の章帝が第3代皇帝に即位する。この皇帝の時代から後漢はおかしくなりだした。

実を言うと、この後漢の歴代皇帝は短命な者が非常に多い。第4代皇帝の和帝から第14代皇帝の献帝まで10人の皇帝がいるが、その中で成人(20歳)になってから即位した者は一人もいない。辛うじて第11代皇帝の桓帝が15歳で即位したのが最高の記録である。そして寿命に至っては初代皇帝の光武帝の63歳が最高で、大抵は20歳から30歳代の若さで崩御する事態が当たり前のように続いた。そのため、子を残さずに崩御する皇帝も少なくなく、直系継承は第5代皇帝の殤帝で早くも断絶し、以後は傍系皇族が時の権力者に擁立される例が相次いだ。

さて、第3代皇帝の章帝の皇后章徳竇皇后というが、この女性がとにかく権力欲の強い女性であった。実は竇皇后は正妻ながら子宝に恵まれず、そのため側室の梁氏が生んだ劉肇を養子にしていたが、皇太子には別の側室である宋氏が生んだ劉慶が立てられていた。すると竇皇后は宋氏を自殺に追い込み、劉慶を廃太子にして劉肇を皇太子に立てた。さらに劉肇の生母である梁氏までも殺害してしまった。88年2月に章帝が32歳の若さで崩御し、わずか10歳の劉肇が和帝として即位した。しかし当然ながら10歳の少年に国政を見ることなど不可能で、実権を掌握したのは竇皇后とその兄・竇憲であった。こうして外戚による専横が開始されることになった。それまで専横が無かったのは光武帝の皇后・陰麗華や明帝の皇后・明徳馬皇后がいずれもよく出来た女性で外戚の政治介入を決して許さなかったが、この章帝の時代からそれが本格化したのである。

和帝が105年に崩御すると、何と生後100日余りの赤ん坊である皇子・劉隆が殤帝として即位する。しかしこの赤ん坊は1年未満で106年に崩御した。当然、この赤ん坊に子供などおらず、やむなく廃太子になった劉慶の子・劉祜が安帝として即位した。即位した時は13歳の少年だった。この安帝も125年に32歳の若さで崩御し、少帝懿が即位するがすぐに廃され、安帝の皇子である劉保が順帝として即位する。そしてこの順帝の皇后を梁妠といい、その弟に梁冀という悪質な人物がいた。この梁氏一族の専横はかつてのどの皇后よりひどい専横・悪政であり、安帝が144年に30歳の若さで崩御すると、皇子が沖帝として即位するが、わずか2歳の幼児のために梁氏一族の権力が強化された。

そしてこの沖帝も3歳で崩御。やむなく傍系から8歳の王子を迎えて質帝とした。わずか8歳だったが聡明だったため、梁冀は後難を恐れて毒殺してしまった。次に擁立されたのも傍系皇族の桓帝である。即位時は15歳であったが、桓帝が即位しても梁冀は政権を返さずに専横を続けたため、さすがに桓帝との間に軋轢が生まれた。

宦官の台頭[編集]

桓帝は梁冀から政権を奪い返すため、宦官単超唐衡らの力を借りて159年に梁冀とその一族を皆殺しにした。これを機に、宦官の権力が強大化した。

当時、宦官は男性の機能を喪失した存在から人間扱いされておらず、士大夫層などからは「濁」つまり汚物のように呼ばれていた。士大夫は自らを「清」と呼んでいたので、以後は清流派と濁流派の抗争が続くことになる。

桓帝は167年に36歳の若さで崩御し皇子が無かったため、傍流皇族から霊帝が12歳で擁立された。この霊帝は飛び切りの暗愚で、宦官に国政を任せきって自らは遊興にふけった。遊興のために財政難が深刻化すると増税、そして官位を高値で売買する有様で、この霊帝の時代に曹操の父親である曹嵩太尉(現在の国防大臣)の地位を1億銭で買っている。腐敗がひどくなり、中央政府内にも不満があふれて外戚の竇武陳蕃による宦官皆殺しも計画されたが失敗し、これを機に外戚やその一党、すなわち清流派は悉く粛清され、国家の枢要なポストは宦官ら濁流派によって独占されることになった(党錮の禁)。

滅亡へ[編集]

184年道教の一種である太平道の教祖である大賢良師張角によって大規模な民衆反乱が起こされる。いわゆる黄巾の乱であり、この乱自体は董卓盧植・曹操・孫堅皇甫嵩といった後に三国志を代表する群雄らによって鎮圧されたものの、黄巾軍の残党の跳梁、韓遂区星をはじめとした相次ぐ反乱などで後漢は乱れ、皇帝権力の弱体化は進んだ。

189年に霊帝が34歳で崩御。後継者をめぐって外戚の何進と宦官の張譲らが争い、何進は宦官らに殺され、その宦官らも当時は何進の部下だった袁紹・袁術・曹操らによってほぼ皆殺しにされた。こうして権力の空洞化が生じたところに新たな実力者として乗り込んできたのが董卓であり、彼は強大な軍事力を背景にして政権を掌握すると何進が擁立していた皇帝・少帝弁を廃して何進の妹である霊思皇后何氏も殺害し、弁の異母弟である劉協を献帝として擁立した。この時点で後漢皇帝は完全に名目上の存在だけとなって統治能力は失われて事実上滅亡したも同然となった。そして、いわゆる『三国志』の時代の幕開けとなる。

190年に董卓の専横に反発した諸侯により反董卓連合軍が組まれると、董卓は献帝を擁して洛陽を焼き払って長安に遷都した。192年に暴政を極めた董卓が養子の呂布暗殺されると、董卓の部下であった李傕郭汜が政権を握るが、献帝はこの両者の争いに乗じて長安から脱出し、紆余曲折を経て曹操の庇護を頼った。しかし曹操も献帝を傀儡としてその権威を利用しながら呂布・袁術・袁紹といった群雄を倒していくだけで、実権は何一つ与えられることがなかった。なお、この曹操の時代に許昌への遷都も行なわれている。

後漢の中央政府にはまだ忠臣も多く、董承耿紀などによるクーデターがたびたび行なわれたが、いずれも曹操により鎮圧されて曹操の権力がますます強まっていった。やがて曹操は魏公、そして魏王にまで登り詰め、献帝に禅譲を迫る第一歩にまで到達する。この間、中国大陸は曹操のほか、劉備孫権(孫堅の次男)によって3分割されていた。

220年1月に曹操が死去すると、息子の曹丕が後継して魏王となる。そして曹丕、その家臣団に迫られて10月に献帝は曹丕へ禅譲することを余儀なくされ、後漢は建国から195年をもって滅亡した。

行政区分[編集]

日本との関係[編集]

有名な「漢委奴国王」の金印が指す「漢」は後漢のことである。

後漢の歴代皇帝[編集]

廟号 諡号 姓名 在位 年号
1 世祖 光武帝 劉秀 23年 - 57年 建武 25年-56年
建武中元 56年-57年
2 顕宗 明帝 劉荘 57年 - 75年 永平 58年-75年
3 粛宗 章帝 劉炟 75年 - 88年 建初 76年-84年
元和 84年-87年
章和 87年-89年
4 穆宗 和帝 劉肇 88年 - 105年 永元 89年-105年
元興 105年
5   殤帝 劉隆 105年 - 106年 延平 106年
6 恭宗 安帝 劉祜 106年 - 125年 永初 107年-113年
元初 114年-120年
永寧 120年-121年
建光 121年-122年
延光 122年-125年
7   少帝 劉懿 125年  
8 敬宗 順帝 劉保 125年 - 144年 永建 126年-132年
陽嘉 132年-135年
永和 136年-141年
漢安 142年-144年
建康 144年
9   冲帝 劉炳 144年 - 145年 永憙 145年
10   質帝 劉纘 145年 - 146年 本初 146年
11 威宗 桓帝 劉志 146年 - 167年 建和 147年-149年
和平 150年
元嘉 151年-152年
永興 153年-155年
永寿 155年-158年
延熹 158年-167年
永康 167年
12   霊帝 劉宏 168年 - 189年 建寧 168年-172年
熹平 172年-178年
光和 178年-184年
中平 184年-189年
13   少帝 劉辯 189年 光熹 189年
昭寧 189年
14   献帝 劉協 189年 - 220年 永漢 189年
中平 189年
初平 190年-193年
興平 194年-195年
建安 196年-220年
延康 220年
  • 大半の皇帝の諡号は頭に「孝」がつく(例:明帝の諡号は「孝明皇帝」)が、日本ではほとんどの場合省略して表記されている。

脚注[編集]


関連項目[編集]