夏侯惇

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の時代に描かれた『三国志演義』の挿絵

夏侯 惇(かこう とん、? - 220年)は、中国後漢末期の武将元譲(げんじょう)[1][2][3]。子に夏侯充夏侯楙夏侯子臧夏侯子江。孫に夏侯廙夏侯佐。曾孫に夏侯劭。兄弟に夏侯廉

生涯[編集]

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身[1][2][3]前漢劉邦に仕えた夏侯嬰の後裔という[1][2]

若い頃から激情の持ち主で、14歳の時に先生について学問していたがその先生を侮辱した男がいたため、すぐさまその男を殺害してその気性を知られるようになった[1][2]曹操の挙兵時から従う股肱であり、190年に曹操が行奮武将軍に任命された際に司馬に任命され、曹操とは別に白馬に駐屯して折衝校尉東郡太守に昇進する[2]193年に曹操による徐州陶謙討伐が開始されると濮陽の守備を任されるが、主力軍が不在の中で呂布張邈の手引きを受けて兗州を奪うべく動き出し、夏侯惇は乱戦のさなかで賊に捕縛されて人質にされてしまう[2]。賊は夏侯惇の軍に対して財宝を差し出せと脅迫し、当時は夏侯惇の部下であった韓浩が「国法により人質に構わず賊を殺します」と言って全軍に攻撃を命じ、賊は怯えて逃げ出したので夏侯惇は無事に釈放されたという[2]

曹操が徐州から撤退すると、夏侯惇も曹操の呂布討伐に従い、この戦いで流れ矢を左眼に受けて失明し、以後『盲夏侯』と呼ばれた[1][2]。曹操軍には当時、夏侯惇と夏侯淵の2将がいて、それを分けるためにそう呼んだとされるが、夏侯惇本人は盲夏侯と呼ばれることを嫌い、鏡を見るたびに腹を立てて地面に鏡を投げ捨てたと伝わっている[2]。また、勇猛の武将でその名は敵味方に広く知られた[1]

後に陳留斉陰太守となり、建武将軍高安郷侯に封じられた[2]。曹操が河北を平定する際には後詰を担当し、冀州鄴城を陥落させた際には伏波将軍に昇進し、法令に拘束されずに自己の判断で行政を行なうことが曹操から許された[2]。曹操の厚い信任は以後も変わらず、207年に領邑1800戸を加増されて2500戸となる。216年に曹操の孫権討伐に従い、曹操が帰還する際に全26軍の総司令官に任命され、居巣に駐屯して孫権の動きに備えることを命じられた[2][3]219年には曹操から特別に召されて同じ車に乗ることを許され、寝室への出入りも自由にすることを許可された[2]

さらに王国の前将軍に任命される。それには裴松之の駐によると、当時の諸侯は全員曹操の魏王国から官位を得ていたが、夏侯惇だけはあくまで後漢王朝の家臣で官位も後漢から得ていた。そこで夏侯惇は上疏して自分は不臣の礼(臣下として扱わない特別待遇、つまり曹操の家臣ではない特別の存在として夏侯惇は厚遇されていた)に該当するほどの人間ではないと述べた。曹操はそれに対し「最高の扱いは臣下を先生として遇することであり、その次は臣下を友人として遇することであるとわしは聞いている。そもそも、臣下とは徳義を尊ぶ人のことである。取るに足りぬ魏が、どうして臣下として君に頭を下げさせようか」と言ったのだが、夏侯惇はあくまでも魏の官位を要請したため、前将軍にしたという。

夏侯惇は陣中にあっても先生を迎え、親しく講義を聴いていた[4]。性格は清潔で慎ましやかで余分な財貨があると人々に分け与え、不足の場合は役所から支給を受けて蓄財することはなかった[4][2][3]

220年、曹操が亡くなり息子の曹丕が跡を継ぐと、夏侯惇は大将軍に任命される[4][2][3]。しかし曹操の後を追うように数ヵ月後に死去した[4][2][3]。諡号は忠侯[2][3]

三国志演義』でも史実のような猛将として描かれているが、やや軽率で血気盛んにされている[2]董卓配下の徐栄袁術配下の橋蕤を討ち取るなど武功を立てる[2]張繍征伐では夜襲を受けて大敗した際、自らの配下が民家で略奪したので統率不十分として曹操から叱責を受け、于禁に部下を殺されたりしている[2]。隻眼になるのは呂布との戦いでその部下である曹性の矢で左目を射抜かれ、矢を抜くと眼球も一緒に取り出してしまい「父母からもらったものだ。捨てるわけにはいかぬ」と言って眼球を食らった上、曹性を突き殺した[2]関羽が曹操の客将となり、劉備の下に戻ろうとした際に5つの関所の将を斬ったので関羽を追撃して一騎討ちを行なうが、張遼に止められて引き下がる[2]荊州の新野にいた劉備を攻める際には、劉備が少数の兵力であったために侮り、諸葛亮の策略に引っかかって火攻めに引っかかって完敗する[2]。そのため自縛して曹操に処断するように求めるが、曹操は優れた将軍であるからとして助命する。その後は赤壁の戦いでの敗北、襄陽の守備において諸葛亮の策略に引っかかって城を明け渡すなど、諸葛亮の引き立て役にされてしまっている[2]。最期は曹操の臨終の際にかつて曹操が処刑した伏皇后らの亡霊を見て自らも昏倒し、病床について曹操の後を追うように亡くなっている[2]

夏侯惇が登場する作品[編集]

アニメ
人形劇
テレビドラマ

脚注[編集]

  1. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P84
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 小出『三国志武将事典』P194
  3. a b c d e f g 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、51頁
  4. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P85

参考文献[編集]