秦朗
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秦 朗(しん ろう、生没年不詳)は、中国の三国時代の魏の武将・政治家。字は元明(げんめい)[1]。幼名は阿蘇(あそ)[1]。父は秦宜禄[1]。母は杜氏[1]。子は秦秀。義父は曹操。異父弟は曹林・曹袞。異父妹は金郷公主(何晏夫人)。
生涯[編集]
并州新興郡の出身[1]。母親が曹操の側室となったため曹操に可愛がられた[1]。曹操の孫・明帝の時代にも重用され、鮮卑族討伐や諸葛亮との戦いに参加している[1]。ただ、明帝の縁者で重用されているのをいい事に賄賂を多く取ったりするなど人格的に問題があったようで、239年に明帝が崩御する際に後継者の曹芳を補佐させるために曹宇・夏侯献・曹爽・曹肇と共に後事を託されるはずだったが、曹宇らと不仲だった劉放・孫資らの讒言により罷免されて[1]、曹爽・司馬懿に後事を託されている。
世間からは明帝に媚びる無為無能の人と評価されていたという[1]。
以後は記録に名が見当たらないが、曹一族でも曹爽に近い縁者のため249年のクーデターで失脚した可能性がある。
『三国志演義』では第102回の234年の五丈原の戦いで登場し、司馬懿の命令で蜀に偽降した鄭文を討ち取るために蜀軍の陣の前に現れ、この際に鄭文に斬られている。ただこれは弟の秦明であった。偽降は諸葛亮に見抜かれており、策略を悪用されて蜀の本陣に攻め込んだ秦朗は蜀軍の待ち伏せにあって懸命に戦うも討ち取られた。