陶謙

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

陶 謙(とう けん、132年 - 194年)は、中国後漢末期の武将政治家群雄徐州刺史・徐州牧[1]恭祖(きょうそ)[1]。子に陶商陶応[1]

生涯[編集]

若りし頃[編集]

揚州丹陽郡の出身[1]。若い頃から学問が好きで、州と郡に出仕して虞県令・幽州刺史となる[1]。後に中央に召されて議郎となった[1]

185年涼州韓遂辺章北宮伯玉らが反乱を起こすと、車騎将軍となった張温に従い、孫堅董卓と共に西征に加わった[1]。しかし酒席で上司の張温を侮辱するなどして辺境に左遷され、後に許されてもその態度を改める事は無かった[1]

徐州の統治[編集]

陶謙は徐州が黄巾残党が蜂起して混乱するに伴い、刺史に任命されて赴任し反乱を鎮圧した[1]。徐州は肥沃な土地で産物もあり、流民も多くやって来る土地だったが[1]、ここで陶謙が行なった統治は最悪だった。陳寿が「道義に背いて感情に任せて行動した」と記録するように、陶謙は名士で忠実な趙昱を疎んじて遠ざけ、邪悪な小人である曹宏笮融などを重用した[1]。ちなみに趙昱は笮融に殺害された。このため徐州では刑罰や法律が正しく執行されず、治安は悪化した[1]

さらにこのような状況で下邳闕宣天子を自称して後漢に反逆[1]。陶謙は闕宣を処罰するどころか、最初は同盟を結んで徐州で略奪を繰り返し、利用するだけ利用してから闕宣を殺害してその軍勢を吸収した[1]

また王朗張昭などの人材があったにも関わらず、重用できないばかりか自分の招聘に応じない場合は処罰することもあった。

曹操との対立[編集]

190年、董卓の専横に対して袁紹ら諸侯が挙兵した際、陶謙は挙兵に加わらず傍観した[1]

董卓が長安遷都すると、諸侯は袁紹派と袁術派に分かれて抗争を開始し、陶謙は袁術に与している。そのため袁紹派で兗州を支配していた曹操と敵対。193年には董卓の乱で徐州に避難していた曹操の父・曹嵩と弟の曹徳を殺害する事件を起こした。これに関しては陶謙自らの意思で行なったとされる説(『武帝紀』)と、陶謙配下の張闓らによる独断とする説(『呉書』)の2説があるが、いずれにせよこの事件で曹操と陶謙の対立は決定的になり、『後漢書』では激怒した曹操が報復として徐州に攻め込み、徐州の数十万の住民から鶏や犬などの動物に至るまで虐殺し、その遺体で泗水の流れを堰き止める凄惨さだったと伝わっている。

追い詰められた陶謙であったが、同じ袁術派の公孫瓚から劉備田楷が援軍として派遣された[1]。陶謙は劉備を引き留めて厚遇し、豫州刺史に推挙して小沛に駐屯させ、丹楊兵4000人を与えた[1]。曹操はこれに対して兵糧の問題から一時兗州に引き揚げ、194年に再度徐州に侵攻すると東海など諸県を攻略し、陶謙を故郷の丹楊に落ち延びさせる事を考えさせるまでに追い込んだ[1]。しかし曹操の留守中に兗州では張邈張超兄弟や陳宮によって呂布が擁立される謀反が発生[1]。曹操は兗州奪回のため軍勢を徐州から引き揚げ、陶謙は九死に一生を得た[1]

間もなく陶謙は病に倒れ、死期を悟った陶謙は2人の息子・陶商と陶応には徐州を統治できる力は無いと判断して後継者から除外し、援軍として留まっていた劉備に後継者の地位を譲って死去した[1]。享年63。

三国志演義において[編集]

正史における陶謙はまさに悪人・奸雄とも言える人物で、陳寿は陶謙を公孫度や公孫瓚と同格の小人物と評している。しかし『三国志演義』では劉備に徐州を譲った経緯からか領民思いの好々爺として描かれ、陶謙の前半生は描かれていない。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 小出『三国志武将事典』P60

参考文献[編集]