関羽

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関 羽(かん う、? - 219年12月)は、中国後漢末期の将軍雲長(うんちょう)[1]。子は関平関興。孫は関統関彝劉備の股肱の臣であり、義の人、没後に神格化された武将として知られている。また立派な顎鬚を蓄えていたことから鬚殿美髯公と呼ばれた。

生涯[編集]

若い頃[編集]

司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の出身[1]。若い頃に故郷を出奔し、劉備の故郷にまで流れ、そこで当時馬商人の用心棒をしていた劉備の仲間になった[1]。弟分の張飛と共に劉備の護衛となり、黄巾の乱で挙兵した後は劉備の股肱として働いた[1]

当時の関羽の状況は「劉備や張飛と同じ寝台に休み、兄弟のような恩愛を受け、大勢が集まっている席では一日中傍に立って劉備を守護し、劉備につき従って奔走し、苦難を厭わなかった」と『三国志』「関羽伝」は記録している。

曹操の下で[編集]

200年曹操の東進で劉備は袁紹の下に逃れ、関羽は曹操に降った[1]。曹操は関羽を優遇し、偏将軍に任命した[1]。同年、白馬の戦いが始まると袁紹軍の勇将・顔良の猛攻により曹操軍は押される一方だったが、関羽は敵軍の中に馬を乗り入れて顔良の首を上げ、袁紹軍を白馬から撤退に追い込んだ[2]。曹操は改めて関羽を長く手元に留めたいと思い、人を介して自分に長く仕えるように打診したが、「曹公がわしを厚遇してくださるのはよく知っているが、劉将軍(劉備)から厚い恩義を受けており、一緒に死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません。わしは絶対に留まりませんが、必ず手柄を立てて曹公に恩返しします」と述べた[2]。曹操が関羽の功績を賞して莫大な恩賞を下賜した際には、関羽は全てを返還して劉備の下へ去って行った[2]。曹操の部下が関羽を追跡しようとしたが、曹操はそれを止めて義を貫かせたという[2]

荊州戦線[編集]

207年、劉備が三顧の礼により諸葛亮を得て身近に置き、親しく語り合いだすと関羽は面白くなく劉備に抗議したが、劉備の「水魚の交わり」を聞いて何も言わなくなったという[3]

208年、曹操が大軍を率いて南下を開始し、同時期に荊州刺史の劉表は病死したため、劉表勢力は戦わずして曹操に降伏した。『三国志』「関羽伝」によると劉備はこのため陸路から南下し、関羽は別動隊の水軍を率いて漢水を下って長坂から脇道を通って漢津で落ちあい、共に夏口に出たという。赤壁の戦いでは特に目立った働きは見せていない[4]

赤壁後、劉備が荊州を支配するようになると関羽がその保全の全てに責任を負うことになった[4]。劉備が益州を支配するようになると、関羽は荊州の重鎮としてその重みはますます増した[4]。益州支配に伴い馬超が劉備の部下になったが、勇猛で知られるが面識のない関羽は馬超の事が気になり、自分と比較してどうかと諸葛亮に手紙を出した。馬超の人物・才能は誰と匹敵するかと。それに対して諸葛亮は「馬超は文武の才を兼ね備え、武勇は人並み外れ、一代の傑物であり、英布彭越の輩(ともがら)である。張飛と先を争う人物というべきだが、やはり鬚殿の比類なき傑出ぶりには及ばない」と返答し、関羽はその手紙を来客にも見せびらかすほど上機嫌になったという[5]

また、馬超が劉備を字で呼んだりしたため、張飛と共に馬超を殺そうとした、という逸話もあるが(『山陽公戦記』)、これに関しては荊州から1度も蜀を訪れたことが無い関羽には不可能な事と否定的な見解が示されている。

214年孫権と荊州をめぐり利害が衝突し、魯粛率いる孫権軍と対峙した。この際は魯粛と交渉を行ない、関羽が折れる形で湘水の流れによって東西を分けることで和平が成立した[6]

処刑[編集]

関羽は張飛と性格が対照的で、部下に対しては温情や憐れみを持って可愛がったが、同輩や士大夫に対しては尊大な態度を取った[4]。そのため、劉備の部下として同様に荊州を守備する糜芳士仁とは不仲だった[4]

219年、関羽は軍を率いて北上し、樊城を守る曹操軍の武将・曹仁を攻めた[7]樊城の戦い)。曹仁は曹操に救援を求め、曹操は于禁軍を派遣したが、漢水地域に長雨が降って江水は于禁の陣営を水没させ、于禁は捕虜になった[7]。これにより関羽の武威は大いに上がり、曹操は遷都を本気で検討するようになるが、曹操の部下であった司馬懿蒋済は孫権に関羽の背後を突かせることを提案し、曹操もそれを受け入れて孫権に提案した。折から関羽と不仲だった糜芳・士仁らは既に呂蒙の調略を受けており、孫権軍が動くとすぐに降伏したため、無血に近い形で関羽は本拠である江陵を失うことになった[7]。しかも呂蒙は関羽ら遠征中の関羽軍の家族を手厚く保護したため、関羽軍の士気は著しく低下した[7]

曹操は新たな援軍として徐晃を送り、この新たな援軍に息を吹き返した曹仁軍の反撃も受けて敗れた。さらに本拠が孫権に奪われたことを知り、麦城に立て籠もった。劉備は上庸郡太守孟達劉封に関羽の救援を命じたが、2人は動かず、関羽は蜀に逃走しようと城外に出たところを孫権軍の武将・馬忠に捕らえられて処刑された。推定年齢は57歳から58歳とされる[7]

死後[編集]

関羽の死後、呂蒙と曹操が相次いで死亡したため「関羽怨霊説」が生まれて「神霊譚」と連動して民間に流布し、関羽に対する一種の同情と信仰が広まっていった[7]。さらに後年になると北宋徽宗が「忠恵公」の称号と「武安王」の王号を贈った[7]万暦帝は「関聖大帝」とし、初めて帝位を与えた[8]。これにより関羽の祀廟を「関帝廟」と呼ぶようになる[8]。万暦帝が帝位を与えたのは鎮魂のための措置だったとされるが、民衆からは大いに受け入れられた[8]

東南アジア華僑の間では関帝は「商売の神様」として信仰が厚い[8]。どの国の中華街にも関帝廟があり、香華は絶えない。横浜中華街神戸南京町にも関帝廟はある[8]

洛陽南郊に「関林」があるが、これは関羽の首を祀っているものである[8]。ただし中国で墓を「林」とするのは聖人だけであり、中国では二つしかない。孔子の「孔林」と関林だけであり、関羽は孔子同様に聖人として高い評価を与えられているのである[8]

人物像[編集]

関羽は勇将で豪胆だったとされ、それを物語る逸話がある。ある時、流れ矢に当たって関羽の左肘を矢が貫通した。後に傷が治っても気候によっていつも骨が痛んだので、医師に診せると矢に毒が塗ってあり骨にしみ込んでいるから、骨を削り取らねばならにということだった。ちょうど関羽は諸将を招いて宴会を開いていたが、関羽は肘を伸ばして医師に任せた。医師は左肘を切開し、骨の毒の染みた個所を削ったが、切開した肘からは血が流れ出て大きな受け皿はすぐに一杯になった。ガリガリと骨を削る音に客らは皆顔を歪めたが、関羽は泰然として談笑しながら焼き肉を切り分け、酒を酌み交わしたという[5]

小説『三国志演義』では桃園の誓いにおいて劉備・張飛と義兄弟の契りを結んだ股肱であり、武勇だけでなく知略にも優れた名将として描かれている。その武勇は呂布に匹敵し、董卓討伐の際には勇将・華雄を一刀の下に斬り捨てて諸侯を驚愕させている。白馬の戦いでは顔良、並びに顔良と並ぶ文醜も討ち取っている。赤壁の戦いでは敗走する曹操を補足するが、かつて曹操に命を助けられ恩義を受けた関係から見逃している。
前述のように、同輩や士大夫に対して尊大な態度を取り敵を作りやすかったが、劉備の股肱であるため演義では実像以上の名将として描かれ、荊州をめぐる魯粛との交渉では「単刀赴会」として関羽を際立たせている。荊州を失ったことに関しても糜芳や士仁、さらには潘濬らを実像以上に愚か者として貶めて責任転嫁しているところがある。そして処刑においては呂蒙が民衆を人質にして関羽をおびき出して殺すなど、関羽の敵は徹底的に人格を辱められ貶められている。このため、人形劇・三国志などの呂蒙のシーンなどは余りに関羽を正義として描くために卑劣なシーンがあったため、逆に作品そのものが批判されることになった。死後には関羽の愛馬である赤兎馬が食事をとらずに餓死し、呂蒙や曹操は呪い殺されるという末路をたどっている。

吉川英治三国志では、桃園の誓いの前は、草庵の先生に仕立て、張飛の粗暴さと対照させ、実像以上の知的さがある人物に描かれている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P195
  2. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P196
  3. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P173
  4. a b c d e 伴野朗『英傑たちの三国志』、P197
  5. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P198
  6. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P125
  7. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P199
  8. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P200

関羽が登場する作品[編集]

アニメ
人形劇
テレビドラマ
映画

参考文献[編集]