曹仁

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曹 仁(そう じん、168年 - 223年)は、中国後漢末期から三国時代武将子孝(しこう)[1][2]曹操の従弟であるが曹操の養祖父・曹騰を通じての縁戚関係のため、直接の血縁関係は無い[2][1]曹純の兄[3]曹泰曹楷曹範らの父。曹初の祖父。

生涯[編集]

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身[2]。曹騰の兄・曹褒の孫に当たる[1]。父は曹熾といい、後漢の侍中・長水校尉を務めたが曹仁が若い頃に亡くなっている[1]

曹仁は若い頃から弓術・馬術・狩猟を好み、190年に諸侯が反董卓の連合軍を結成した際には1000人の兵を率いて曹操の下に馳せ参じ[1]、曹操の親族として若い頃から従った股肱の家臣である[2]。曹操から別部司馬・行蠣縫校尉に任命され、騎兵を率いて袁術陶謙呂布との戦いでいずれも参加して武功を立てたので、広陽郡太守に任命された[1]。しかし曹操は曹仁の武勇や智略を側近くで用いたかったので任地には向かわせず、議郎のまま騎兵隊を指揮させたという[1]張繍袁紹との戦いでも武功を立てて勝利に貢献した[1]

205年、曹操の華北平定に従軍していた曹仁は、袁尚の一族である高幹が立て籠もる壺関(現在の山西省)を包囲した[2]。この際、曹操から落城したら捕虜を全員生き埋めにするように命令された[2]。しかしそれを知った高幹軍は死に物狂いで抗戦し、数ヶ月たっても全く落とせる目処が立たなかった[2]。そこで曹仁は「城兵のために生きるための出口を示してやるべきで、敵は降れば必殺を布告されているから進んで守りについている。城壁は堅固で食料も豊富にある。このままでは我が方の士卒を傷つけるだけであり、包囲を続ければ長い日数をかけることになり、良策ではない」と曹操に進言した[2]。曹操が曹仁の意見に従い出口を開けると、壺関は間もなく降伏した[2]

208年赤壁の戦いの際には行征南将軍に任命される[1]。しかし赤壁で曹操軍は敗北する。曹仁は北に戻る曹操から江陵(現在の湖北省江陵)の守備を託された。周瑜率いる孫権軍が来襲すると、曹仁は牛金に軍兵300人を与えて迎撃させた[4]。周瑜は兵力を増強して牛金を包囲した[4]。曹仁は牛金らを救うために側近の諌めを振り切って数十騎を率いて出撃し、2度にわたって敵陣に突撃する[4]。そして激戦の中で牛金らを助け出し、曹仁の勢いを恐れた孫権軍は一時撤退したほどだった[4]。このため、家臣から「将軍は本当に天上世界の人」とまで言われた[1]。ただ、この戦いは最終的に曹仁は敗れているが、曹操は曹仁の功績を認めて安平亭侯に封じた[4]。その代わり周瑜を負傷させた[1]

212年馬超との戦いでは行安西将軍に任命されており、諸将をまとめる総司令官として馬超を破るのに貢献した[1]

219年関羽率いる劉備軍が北上してくると、その攻勢を樊城(現在の湖北省襄樊)でよく耐えた[4]樊城の戦い)。関羽による水攻めも耐え抜いて徐晃の援軍の到着を待ち、最終的に関羽軍を打ち破った[4][1]

220年、曹操が死去して曹丕が跡を継ぐとそれに従う。一族に冷淡な曹丕も曹仁だけは別格のように信任し、文帝として皇位に即位すると都督荊揚益州諸軍事、車騎将軍、陳侯に昇進して2000石の加増を受け、合計して3500石の知行を有した[4][1]。さらに曹一族の重鎮として大将軍大司馬となり、合肥に駐屯して対孫権の前線を担った[3][1]223年に56歳で死去[3][1]。忠侯と諡された[3][1]

人物像[編集]

曹仁は若い頃は粗野で身を慎まなかった[4][1]。しかし成長して武将になると厳格に法規を遵奉し、いつも法律の条文を身の回りに置いて、これと照らし合わせながら事を執り行った[1][4]。またその戦いぶりは苦しいときにいつも底力を発揮する粘り強さであり、多くの人から賞賛された。

文帝は同母弟の曹彰に対して「(将軍となるなら)曹仁を手本にせよ」と手紙を送って戒めている[1]。『傅子』においては「曹仁の武勇は孟賁夏育に匹敵し、張遼はその次に位置する」と評価している。

小説『三国志演義』では曹操の旗揚げを助ける武将として第5回から登場する。しかし「銭欲太守」と罵倒されたり、劉備徐庶を侮り李典の諌めも聞かずに新野城に攻め込んで大敗したり、諸葛亮を侮って攻めてまた大敗したりするなどの姿が描かれ、史実のような名将ぶりは描かれずむしろ愚将として描かれている。ただし牛金を助け出すシーン、関羽戦での奮戦などは史実どおりの活躍が描かれている。第86回で死去している事が語られている。

曹仁が登場する作品[編集]

アニメ
テレビドラマ

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 小出『三国志武将事典』P189
  2. a b c d e f g h i 伴野朗『英傑たちの三国志』、P75
  3. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P77
  4. a b c d e f g h i j 伴野朗『英傑たちの三国志』、P76

参考文献[編集]