馬超
馬 超(ば ちょう、176年 - 222年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将。字は孟起(もうき)[1]。
父は馬騰。弟は馬休・馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏・董氏(側室)。子は馬秋、馬承。娘は劉理の妻。
生涯[編集]
右扶風郡茂陵県(陝西省興平市)の出身[1]。211年、曹操が関中平定のために攻め込んでくると、父や兄弟と別れて涼州にいた馬超は関中の軍閥を糾合して反曹操同盟を結成した[1](潼関の戦い)。馬超の軍は精強であり、韓遂と共に曹操相手に善戦した[1]。曹操軍が黄河を渡河して馬超を急襲しようとした際、馬超は渡河中の曹操軍を急襲して曹操軍を危機に陥れた[1]。しかし曹操の部下で同郷である典軍校尉・丁斐が曹操軍が管理していた牛馬を一斉に解放したため、牛馬に目のない涼州兵は次々と敵兵より牛馬の確保に眼を奪われ、馬超は長蛇を逸してしまった[1][2]。曹操は参謀・賈詡の進言を容れて馬超と韓遂の離反を図る[2]。勇猛だが謀略とは無縁な馬超には離間策など理解できず、曹操軍の急襲を受けて涼州に落ち延びた[2]。その後、父や兄弟など鄴にいた一族が曹操に誅殺された[2]。馬超は勢力を再建して曹操に再度挑むが、楊阜の計略に敗れ、妻子も殺されて漢中の張魯を頼って落ち延びた[2]。
214年、劉備が益州を攻略すると(劉備の入蜀)、劉備の配下として身を投じて平西将軍に任命される[2]。『典略』によると劉備は馬超が到着すると大いに喜び、「わしは益州を手に入れたぞ」と言った。そして使者を派遣して馬超を留め置いて秘密裏に軍兵を与えた。そして馬超に軍兵を引き連れさせて成都の北側に駐屯させた。馬超が来てから10日で成都は陥落した。
『山陽公戦記』によると、馬超は劉備が手厚く待遇をしてくれるため、劉備と話をするときにいつも「玄徳」と字で読んだ。関羽が激怒し、馬超を殺したいと劉備に願い出たが、劉備は「馬超は追い詰められてわしを頼ってきた。それなのにお前は馬超を殺そうと言うが、そんなことでどうして天下の人の理解を得られるか」と述べて許さなかった。すると張飛が翌日、大会議を開いて馬超を招き入れた。関羽と張飛は共に剣をついて侍立した。馬超は座席の方を見たが関羽と張飛の姿が見えなかった。2人が劉備の傍で侍立しているのを見て驚き、二度と玄徳と字では呼ばなくなった。そして翌日、「わしは今にして自分の敗北の原因がわかった。主君の字を読んだために危うく関羽と張飛に殺されるところだった」と嘆息して述べ、馬超は劉備に敬意をもって仕えるようになった。ただ、裴松之は関羽は荊州を当時は守備していたはずで、成都には来ていないためあり得ないとしている。ただそうなると何故裴松之はこの記述を註に採用したのか疑問も残る。
馬超は驃騎将軍に任命され、蜀の中でその武勇は高く評価されたが[3]、蜀で目立った活躍は無い。222年に47歳で死去[3]。夷陵の戦いの発生した年であるが、この戦いには参戦していない[3]。死に臨んで「私の一門200人余りは曹操によって殺され、ほとんどが絶滅いたしましたが、ただ従弟の馬岱だけが残っています。衰えた家の祭祀を継ぐべき男として、そのことをくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。後は言い残すことはありません」と上奏した[3]。
死後、威侯と諡された。跡は子の馬承が継いだ[4]。従弟の馬岱は平北将軍、陳倉侯に封じられた[4]。
三国志演義[編集]
小説『三国志演義』では馬超が劉備の部下となったためか、馬超の行為を正当化し曹操を悪玉として描くため、徹底した改竄が行なわれている。そもそも父をはじめとした一族が殺されたのは馬超が反乱を起こしたためなのだが、演義では劉備らとの決戦を前に後顧の憂いを除くために曹操に都に召し出されて謀殺され、その復仇から曹操討伐に立ち上がる設定に変更されている。史実では蜀に降った後の活躍は無いが、漢中攻防戦では曹操軍相手に奮戦している。演義では史実より延命が図られ、劉備の孫権討伐すなわち夷陵の戦いでは漢中の守備にあたり、劉備の死後に曹丕が司馬懿の策を容れて5路から蜀侵攻を図ると、一手の大将を引き受けて西平関で魏軍を破った[4]。諸葛亮が南征を行なうと陽平関の守備について魏に対し睨みをきかせた[4]、などとされている。