曹丕
曹 丕(そう ひ、187年[1] - 226年[1]5月17日)は、三国時代の魏の初代皇帝(在位:220年 - 226年)。曹操と卞皇后の長男で、父が築いた魏王朝の基礎を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、魏王朝を名実共に創始した。帝号は文皇帝(ぶんこうてい)。字は子桓(しかん)[1]。
生涯[編集]
即位前[編集]
曹操と卞皇后の長男であるが、曹操の男子としては3男であり、兄に曹昂・曹鑠がいたため生まれた時は後継者では無かった。しかし曹昂は197年に張繍の奇襲を受けて敗走する父の身代わりになって戦死し、曹鑠は早世した。それでも父が寵愛する聡明で仁愛に溢れた異母弟の曹沖がいたが、彼も208年に早世。これでもまだ父の愛情は同母弟の曹植に向いたため、曹丕の後継はすんなりとは決まらなかった。ただし204年に父に従って袁紹一族の討伐に参加し、この際に父が自分に献上するように命じていた甄氏を自分の物にするというちゃっかりとした一面も見せている。
211年に五官中郎将・副丞相に任命される[1]。しかし愛されていなかったわけではないが父の愛は曹植に向いたままで、曹丕は後継者の立場を曹植に奪われることを恐れた。そこで謀臣の賈詡の助言を得て父の前では優等生を演じ続けた。曹操も賈詡の「袁紹と劉表のことを考えていた」発言で長男に跡を継がせないと滅ぶという実例を目にしていたこともあり、217年になってようやく曹丕は魏王国の王太子に指名された[1]。
219年に魏諷が曹操の留守をついて都で反乱を起こそうとした際、曹丕がその鎮圧に当たった(魏諷の乱)。
即位後[編集]
220年に曹操が死去すると、後継の丞相・魏王となり、曹操の死から9ヵ月後の10月に遂に献帝から禅譲を行なって皇位を譲られたという形で魏皇帝に即位し、文帝となる[1]。
文帝の時代は曹操の時代を支えた名臣・名将に恵まれ、その遺産をバックにして国政を行なった。文帝は陳羣の建議を得て九品官人法を制定し、弟の曹植と王位を争い後漢が外戚の介入で衰退した過去などから皇族の権力を抑制し、反逆や大逆を除いた取調べの穏健化、巫女による祭祀の禁止、配偶者無き男女や貧窮者に穀物を下賜するなど、内政に敏腕を発揮した[1]。
一方で軍事・外交手腕には欠けており、221年に蜀の劉備が皇帝に即位して呉に対して東征を開始。いわゆる夷陵の戦いであるが、この際に魏に攻撃されることを恐れた孫権が臣従を申し込んでくると受け入れて孫権を呉王に封じた。222年に孫権が劉備を破ると今度は文帝が自ら呉に攻め込んだが失敗した(黄初三年の対呉遠征)。223年に劉備が崩御すると孫権は蜀との関係を改めて再び同盟を締結したため、激怒した文帝は224年に再び自ら呉へ親征した(黄初五年の対呉遠征)。しかしこの親征も呉の名将・徐盛により阻まれて失敗した。225年にも呉に対して親征を行なうが(黄初六年の対呉遠征)、これも孫権一族の名将・孫韶により阻まれて失敗した。
226年、文帝は風邪をこじらせたのが原因で肺炎を引き起こして重態となる。この時点で甄氏の問題から文帝は皇太子を立てていなかったが、死期を悟って急遽長男の曹叡を皇太子に立てた。5月16日、文帝は危篤になる中で中軍大将軍の曹真、鎮軍大将軍の陳羣、征東大将軍の曹休、撫軍大将軍の司馬懿らに後事を託した。5月17日に文帝は洛陽の嘉福殿で崩御した。享年40。
文帝は6月9日に首陽陵に埋葬された。
人物像[編集]
文帝は曹操・曹植ほどではないが建安を代表する文人の一人であった。また前述しているように内政・行政手腕には非常に優れており、陳寿も文帝の手腕を高く評価している。
その一方で度量が大変小さく、過去に私怨があった者は決して許さなかった。後継者の地位を争った曹植を支持した丁儀・丁廙一族や楊俊の粛清、功臣であり皇族でもある曹洪を過去に借財を頼んで断られた恨みから皇帝即位後に他の罪を口実に殺そうとしたり、于禁や張繍を憤死に追い込んだり、鮑勲を昔の恨みからわずかな罪で処刑したり、曹叡の生母である甄氏を自殺させたり、曹植を徹底的に冷遇したりと、この手の陰険かつ陰惨な逸話には事欠かない[1]。なお、これらの粛清の際には常に重臣の諫言や助命嘆願が行なわれたが、文帝はこれを聞き入れない度量の無さを示している。『世説新語』では弟の曹彰も文帝が毒殺した説を載せているなど、決して可能性が無いわけではなくむしろ疑わしささえ沸いてくるほどである。そのため小説である『三国志演義』などでは文帝の陰険、冷酷さがさらに際立つように創作されているほどである。この度量の狭さには陳寿も惜しんでおり「(文帝に)広大な度量が加わり、公平な誠意を持って務め、道義の存立に努力を傾けたら、古代の賢君に引けをとらない存在になり得た」と評している。
また文帝が皇族に権力を与えなかったことは確かに皇族の内紛を抑制した点では評価できるが、一方で重臣の台頭を抑えられる藩屏が存在しない事も意味しており、後に司馬懿一族の台頭を抑えられず魏を滅亡に導く一因になった。ただし魏の後に成立した西晋は極端に皇族に権力を与えすぎた結果、八王の乱という狂気の内乱を引き起こして滅亡の道を歩んでいるため、一概に文帝の施策が悪いとも言い難い。
文帝は在位6年、40歳という働き盛りで世を去ったが、もし長命だったら魏が司馬懿一族に簒奪されるのは防ぐことができた可能性があり、その点は惜しまれるところである。
『三国志演義』では冷酷さがさらに際立たされ、曹熊が病弱なのに曹操の葬儀に参加しなかった事を咎めて自殺に追い込んだり、曹植に7歩歩むうちに詩を作らなければ処刑するなど無茶な命令を出したりしている。また224年の対呉親征は大失敗して張遼を失い、赤壁の戦いに匹敵する大被害を受けた設定にされている。
宗室[編集]
妃后[編集]
子[編集]
- 男子
- 曹叡(明帝)母は甄氏
- 曹協(賛哀王)母は李貴人
- 曹喈(早世)
- 曹蕤(北海悼王)母は潘淑媛
- 曹鑑(東武陽懐王)母は朱淑媛
- 曹霖(東海定王)母は仇昭儀
- 曹礼(元城哀王)母は徐姫
- 曹邕(邯鄲懐王)母は蘇姫
- 曹貢(清河悼王)母は張姫
- 曹儼(広平哀王)母は宋姫
- 女子
- 公主(早世)母は徐姫
- 東郷公主(母は甄氏)