献帝 (漢)

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献帝(けんてい、181年 - 234年)は、後漢の第14代(最後)の皇帝である。劉 協(りゅう きょう)。第12代皇帝・霊帝(劉宏)の次子で、第13代皇帝・少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は王美人(王栄)。諡号からは孝献皇帝とされ、からは孝愍皇帝とされた。一般的に魏の諡号を略称とした献帝と呼ばれている(在位:189年 - 220年)。傀儡として董卓に擁立され、その死後も李傕曹操曹丕らに利用される生涯を送った。伯和(はくわ)[1]

生涯[編集]

生母の王栄が何進の妹・何皇后毒殺されたため、祖母の董太后に養育される[1]。189年に霊帝が崩御すると、兄の劉弁が大将軍何進や何皇后に推されたのに対し、劉協は董太后や宦官十常侍らによって推されて抗争となる[1]。この時は軍事力を背景にした何進に推された兄・劉弁が少帝として即位し、劉協は陳留王に封じられる[1]。しかし同年のうちに何進は十常侍によって謀殺され、宦官らもこれに激怒した何進の部下だった袁紹袁術曹操らによって皆殺しにされ、この政治的空白を縫って乗り込んできた董卓によって宮中から連れ出されていた少帝弁と劉協は庇護され、洛陽に戻った[1]。そして少帝弁が董卓によって廃された後、後継の皇帝として擁立された[1]

皇帝とは名目上でしかなく、実権は完全に董卓が掌握しており、董卓の傀儡として利用されるだけだった[1]190年に各地の諸侯が董卓の専横に対して挙兵すると、董卓によって強制的に長安遷都させられ連れていかれてしまう。長安でも董卓の暴政は留まるところを知らず、192年になって董卓は王允呂布によって暗殺されるが、董卓の旧部下である李傕・郭汜によって王允は殺され、呂布は追放されて今度はこの両者によって利用されることになった[1]。後に李傕・郭汜が主導権をめぐって争い始めると献帝は長安を脱出して洛陽に帰還するが、洛陽は董卓の焼き討ちによって廃墟と化しており再建は不可能だった[1]。李傕・郭汜らは献帝を奪回しようとしたが曹操に敗れ、献帝は曹操の傀儡となる[1]。曹操は洛陽の再建は不可能と考えて許昌への遷都を行ない、朝廷は曹操が覇者になるために敵対する群雄に対する正当な大義名分を与える機関として利用されるだけだった[1]

だが曹操の専横に対して不満を抱く朝臣も少なくなく、200年には献帝の親族である車騎将軍董承がクーデターを計画し、献帝もこれに協力して密勅を与えたが、計画は露見して董承や王子服らは処刑され、董承の娘ということで献帝の側室であった董貴妃まで処刑されてしまう[1]。以後も曹操の専横の下で利用され、214年にはかつて伏完に曹操の恨み言を述べ、さらに14年前の董承のクーデターを誹謗したとして伏寿(皇后)が処刑されてしまい、さらに曹操の娘・曹節を新しい皇后として立后することを強制された[1]。この際に曹操により連行される伏寿から「どうか助けてください」と献帝は請願されるが、献帝は「朕だって、いつどうなるかわからないのだよ」と答えるのみだったという。

216年には曹操を魏王に封じることを余儀なくされ、218年には耿紀韋晃吉本らがクーデターを起こすも鎮圧されて朝臣は悉く処刑されてしまう。219年にも魏諷によるクーデターが起こるが失敗している。

220年1月に曹操が死去し、息子の曹丕が後継者となる[1]。曹丕やその重臣らに半ば強制される形で禅譲を余儀なくされ、10月に献帝は曹丕に帝位を譲って退位し、ここに後漢は滅亡して新たに魏が成立した[1]。曹丕は文帝となり、その文帝から献帝は山陽公に封じられて許都を去ることを命じられる。この際に献帝が殺されたという誤報が蜀に流れたという[1]

その後は政治と関わりあうことなく余生を過ごした。文帝より長生きし、文帝の息子である明帝の時代、諸葛亮の最後の北伐の行なわれた年に死去した。享年54。

三国志演義』では第3回で宮中が混乱すると兄の劉弁と共に宦官に連れ出され、董卓に庇護されるがこの際に堂々とした態度を見せたため董卓から頼りない劉弁より聡明であるとして皇帝に擁立される。その後は史実と同様で董卓やその部下たち、曹操に傀儡として利用される[1]。最後は曹丕に禅譲して許都を去っている。

宗室[編集]

后妃[編集]

子女[編集]

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曾孫[編集]

玄孫[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q 小出『三国志武将事典』P8

参考文献[編集]