諸葛亮

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諸葛 亮(しょかつ りょう、、181年 - 234年8月)は、中国後漢末期から三国時代政治家武将参謀孔明(こうめい)[1]諸葛 孔明(しょかつ こうめい)とと字で称されることも多い。

後漢末期の群雄の一人・劉備から三顧の礼を受けて仕え、以後は参謀・政治家として劉備を支えて一時期は益州荊州を制して曹操孫権と並ぶ勢力を構築した。劉備没後は後継者の劉禅に仕え、丞相として政軍の全権を掌握して三国で最も弱小国であった蜀をよく支える。北伐を行なって曹魏を討とうとしたが果たせず、五丈原において陣没した。

妻は黄夫人。子は諸葛瞻。孫に諸葛尚諸葛京。従父(叔父)に諸葛玄、同母兄でに仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、に仕えた諸葛誕などがいる。

軍師・参謀が綺羅星の如く多い三国志の中でも特に優れたスーパー軍師として知られているが、実際は優秀な政治家・戦略家に過ぎず、戦術家や謀略家としてはかなり凡庸だったことが三国志の研究が進められている現在では明らかになっている。

生涯[編集]

三国志演義における諸葛亮[編集]

『三国志演義』では字の孔明で記録されており、綸巾を被り、羽扇を手にして戦場では四輪車に乗っている漫画アニメ小説などでお馴染みの姿で描かれている[1]。劉備の三顧の礼を受けて感激して仕官し、夏侯惇が攻めて来ると劉備との水魚の交わりに嫉妬した関羽張飛らを自らの鬼謀により夏侯惇を破ることで敬服させる。以後も赤壁の戦いをはじめとした曹操軍・孫権軍との戦いで万物に精通した鬼神のような働きを見せて大勝する姿が描かれている。そしてその鬼謀に恐れをなした周瑜が孔明を恐れて密かに暗殺しようとしたりするなど、敵の名将が卑劣で器量の小さい人物として描かれることも少なくない。赤壁では曹操軍の矢を10万本も集めたり、火攻めに必要な東南の風が吹くことを見越してわざと祭壇を設けて祈祷で風向きを変えたりしている[1]。曹操軍との漢中での攻防戦でも伏兵を駆使して城を奪ったり敵軍を壊滅させたりしている。

劉備没後は劉禅に仕え、孫権と同盟を再締結した上で南蛮征伐を行なう[1]。この征伐でも諸葛亮は智謀を駆使して孟獲を破っているが、その際に13世紀南宋の時代に開発されたはずの火器まで登場する時代錯誤的なシーンまで登場して諸葛亮の凄さを見せつけようとしているフィクションぶりである[1]。孟獲を心服させると、魏に対する北伐を開始する。曹真を破るなど魏軍に対して優勢に立つが、司馬懿が出てくるとその勢いも止まり、馬謖の失策で撤退を余儀なくされる。以後も北伐を繰り返し、曹真を屈辱的な内容の書状を送り付けて憤死に追い込んだりしているが、最後は司馬懿と兵糧の欠乏、本国の事情などから撤退を余儀なくされている。最後の北伐では司馬懿に初戦を制されて大被害を受けるなど、その鬼謀に陰りが見え始める。それでも司馬懿・司馬師司馬昭らを焼き殺す寸前まで追い詰めるが、雨が降って火が消えたために失敗に終わる[1]。同盟軍の孫権軍も曹叡によって蹴散らされ、それを機に長年の疲労から病に倒れる。延命を図るために祭壇を築いて儀式を行うが、魏軍の襲撃を報せに来た魏延により主灯が倒されて失敗に終わり、自らの死を悟った諸葛亮は姜維らに後事を託して死去する。生前に諸葛亮は自らの木像を造らせており、諸葛亮の死を悟った司馬懿が魏軍を率いて追撃してくるとその木像と蜀軍の迎撃態勢を見て諸葛亮に謀られたと思い、慌てて逃げている描写が「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事となっているが、木像に驚いたとされているのは演義による創作である[1]

諸葛亮を偉大な軍師と見せつけるため、周瑜や曹真など本来は名将と言われるべき人物が度量が小さく、凡庸な人物として描かれているケースも少なくない。また演義でも「曹叡など恐れるに足らぬ」と発言したり馬謖を大事な場面で任用したりするなど、人物鑑定眼に疑問を持たせる場面も存在する。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 小出『三国志武将事典』P362

参考文献[編集]