許攸

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許 攸(きょ ゆう、? - 204年)は、中国後漢末期の政治家子遠(しえん)[1]

生涯[編集]

荊州南陽郡(現在の河南省南陽市)の出身[1]。若い頃に袁紹張邈と「奔走の友」の交わりを結び、曹操とも親交を結んだ[1]冀州刺史王芬周旌らと結託して霊帝を廃して合肥侯を擁立するクーデターを計画し、曹操にも相談したが曹操は計画に反対して加わらず失敗し、許攸は逃亡した[1]

時期は不明だが後に袁紹の家臣となる[1]200年官渡の戦いでは袁紹に対して許昌襲撃の作戦を進言したが容れられず、また許攸の家族が罪を犯して審配に逮捕されてしまったため、許攸は曹操に投降した[1]。曹操は許攸の投降を知ると喜びの余り裸足で飛び出して出迎えた[1]。許攸は曹操に自軍の兵糧の残りを聞かれると曹操は余裕があるように虚偽を言ったが許攸はすぐに見破り、曹操も後わずかしかないと真実を話したため、許攸は曹操に袁紹軍の兵糧貯蔵基地である鳥巣の襲撃を進言し、曹操軍の勝利に貢献した[1]。鳥巣を襲撃した際、ここを守っていた元同僚の淳于瓊捕虜となり、曹操に鼻を削がれた上で助命されかけると、許攸は「明朝に鏡を見たら我々に対する恨みを忘れない」と述べて暗に処刑するように勧めた(『曹瞞伝』)。

こうして官渡戦勝の功労者となった許攸であるが、次第にそれを笠に着て傲慢になり出し、曹操を阿瞞と幼名で呼んだり、曹操が冀州を平定した際に「阿瞞よ。私を手に入れなければ冀州を獲得できなかったのですよ」と述べたりした[1]。そしてを落とした際に「私がいなければ曹操はこの門を出入りできなかったであろう」と述べて自慢したのを曹操に密告される[1]。曹操は最初は内心で嫌悪しながらも表面上は笑って許していたが、遂に堪忍袋の緒が切れて許攸は処刑された[1]

人物像[編集]

曹操の参謀・荀彧は「貪欲で身持ちが修まらない人物」と評している[1]。『三国志演義』でも貪欲な人物として登場し、傲慢になって最後は激怒した許褚に殺されている。王芬とのクーデターなどは描かれていない。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 小出『三国志武将事典』P18

参考文献[編集]