鮑信
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鮑 信(ほう しん、152年 - 192年)は、中国の後漢末期の群雄。済北の相。弟は鮑韜。子は鮑邵・鮑勲。
生涯[編集]
兗州泰山郡平陽県の出身[1]。沈着冷静で智謀の持ち主として知られ、霊帝の時代に騎都尉となる[1]。189年の何進の死後に董卓が洛陽入りを果たすと鮑信はそれを危惧して袁紹に董卓襲撃を薦めたが、袁紹は董卓を恐れて受け入れなかった[1]。そのため鮑信は帰郷して兵を集め、さらに曹操の才能を高く買っていたため反董卓の挙兵が起こるとその旗揚げを支援し、行動を共にした[1]。190年、董卓配下の徐栄と戦うが敗れて自らは重傷を負い、弟の鮑韜を失った[1]。
曹操が東郡太守になると自らは済北の相となる[1]。192年、青州の黄巾賊が兗州に侵攻すると、当時の兗州刺史である劉岱は鮑信の諫言を無視して黄巾賊と戦って戦死する[1]。そのため新しい兗州刺史に曹操が推戴され、鮑信はそれに賛成した[1]。そして曹操と共に戦場を視察した際に黄巾賊に遭遇し、鮑信は曹操を救出するが自身は戦死した[1]。
後に曹操は覇権を握ると遺児の鮑邵・鮑勲らを取り立てて功に報いた[1]。
『三国志演義』でもほぼ同様であるが、孫堅の一番乗りの手柄を奪おうと弟を密かに出陣させるなど少し狭量な人物として描かれている。