青州兵
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青州兵(せいしゅうへい)とは、後漢末期の群雄であった曹操が覇権を手にする過程で主力の精鋭軍を成した軍隊の事である。
概要[編集]
184年の黄巾の乱以降も後漢では宦官と外戚による権力闘争が続き、さらに189年には董卓による洛陽入城で政権が董卓に移ると後漢王朝は完全に有名無実化し、中国全土で黄巾党の蜂起も相次いだ。192年に董卓が王允・呂布らに暗殺されて中央にあった強大な権力者が消滅すると、青州の黄巾残党100万人が蜂起して兗州の刺史・劉岱を殺害する[1]。当時、東郡の太守であった曹操は陳宮の推挙を受けて後任の兗州牧となり、黄巾賊の討伐に当たる[1]。しかし鮑信が偵察中に戦死するなど一時は劣勢だった。しかし計略を用いて曹操は青州兵を追い詰め、遂に降伏させた[1]。曹操は100万人の中から選りすぐりの精鋭を10万人ほど選抜して青州兵の称号を与えた[1]。
この青州兵は元々宗教結社の集まりだったため団結力が非常に強く、さらに各地を転戦していて経験も豊富な精強部隊だった[1]。そのため呂布・袁術・袁紹と一時は曹操を凌ぐ勢力だった群雄を次々と打ち破る際には数々の功績を立てた。そのため記録では青州兵を手に入れてから「魏武(曹操)の強、これより始まる」とまである[1]。しかしそのため曹操は青州兵の無法に対してある程度は譲歩を余儀なくされ、青州兵が増長することも少なくなく、見かねた于禁によって処罰されることもあった[1]。
220年1月に曹操が死去すると、青州兵らは「仕えるのは一代(曹操)限り」という曹操の約束に従って、後継者の曹丕には仕えずに太鼓を鳴らしながら故郷の青州に帰還した[1]。