夏侯楙
夏侯 楙(かこう ぼう/かこう も、生没年不詳)は、中国の三国時代の武将・政治家。字は子林(しりん)。父は夏侯惇。兄は夏侯充。弟は夏侯子臧・夏侯子江・他数名。妻は曹操の娘(清河長公主)。
生涯[編集]
夏侯惇の次男で兄に夏侯充がおり、220年の夏侯惇の死後、その爵位は夏侯充が継承したが、夏侯惇が曹操配下の大功臣であったことから、夏侯楙は曹操の娘である清河公主を娶ることを許され、さらに夏侯惇の存命中から列侯に封じられ、侍中尚書・安西鎮東将軍・仮節などに任命されるなど特に厚遇された。
『魏略』によると、220年に曹丕が文帝として即位すると、安西将軍・持節に任命され、さらに前年に戦死した夏侯淵の役職である都督関中を受け継ぐことを許された。しかし、夏侯楙のこれらの出世はあくまで夏侯惇という父が大功臣であったことから許されたものであり、生来から武略がなく守銭奴であったことから228年に曹叡(明帝)の命令で都に召喚され、尚書に任命される。ところが赴任中に多くの妾を囲ったことから正妻の清河公主との関係が悪化した上、自分のことを棚に上げて実弟らの非礼を叱責し、処罰を恐れた弟らが逆に共謀して夏侯楙の罪をでっちあげて清河公主に上奏させたので、夏侯楙は曹叡の命令で逮捕されて処刑されかけるまでに至るが、夏侯惇の生前の功績を考慮して処刑は取りやめたという。
『三国志演義』では字が子休(しきゅう)とされている。実父は夏侯淵で、夏侯惇は養父という設定に変更されている。蜀の諸葛亮が北伐を開始すると、夏侯楙は王朗が諫めるのも聞かずに自信満々で出陣し、実戦経験の乏しさから大敗する。王平に捕縛されたり、すぐに釈放されて姜維を味方につけるための出汁に使われたりと、暗愚な武将として描かれている。最後は天水郡の城に立て籠もったが、そこの城兵が諸葛亮に内応したため落城は必至となり、同郡太守の馬遵と共に胡に逃亡し、以後は物語に登場しない。