曹昂
ナビゲーションに移動
検索に移動
曹 昂(そう こう、? - 197年)は、中国の後漢末期の武将。曹操の長男。字は子脩(ししゅう)[1]。同母弟は曹鑠。同母姉妹は清河長公主(夏侯楙夫人)。異母弟は曹丕・曹沖・曹均ら。
生涯[編集]
曹操の長男で生母は妾の劉夫人[1]。劉夫人は早くに亡くなったため、子の無い正室の丁夫人により育てられた[1]。20歳の時に孝廉に推挙される[1]。
197年、曹操の張繍討伐に従軍するが、張繍は参謀の賈詡の策を容れて曹操軍を急襲する[1]。この急襲により曹操軍は大敗し、曹昂は乱戦の中で戦死した[1]。
『世語』によると怪我で馬に乗れなくなったので、曹操に馬を差し出して自らは犠牲になったとある。
後に異母弟の曹丕が文帝として即位すると、221年に豊悼公と諡された[1]。曹昂には子が無かったため、甥の曹琬(曹均の子)がその跡を継いだ[1]。甥の明帝の時代である229年には愍王と諡され、曹操の長男として「豊愍王昂伝」が陳寿により立てられている[1]。
曹丕には「限界があった」と評されており、曹操からは実の息子であるにも関わらず同じくこの奇襲で戦死した典韋の死去のほうを惜しまれたりするなど、その評価は散々なものがある。
『三国志演義』では第16回で登場。史実通り張繍の夜襲を受けて曹操と共に逃げるが、曹操の馬が流れ矢に当たって傷ついたため馬を提供して曹操を逃がし、自らは矢を浴びて戦死した。