近鉄18000系電車
近鉄18000系電車(きんてつ18000けいでんしゃ)とは、かつて近畿日本鉄道に在籍した特急型電車。吊り掛け駆動方式を採用した最後の特急車でもあった。
概要[編集]
1964年、近鉄京都線・橿原線では有料特急の運用が開始された。当初は680系2連2本と、683系3連1本で1日12本の運用を担っていたが、683系には冷房がなく、さらに3本の特急の予備車として非冷房のクロスシートの一般車までそのままの塗装で特急運用に駆り出されるという車両のやりくりがつかない状態に陥っていた。
しかし、近い将来に計画されていた京都線系統の車両限界の拡大と1500Vへの架線電圧の昇圧のもとで専用車としての完全新造の車両を用意するのは困難な状況であった。そこで、車体だけ新規設計して機器類は在来車から流用することでこの18000系が1965年と1966年に2連1本ずつ[1]、計4両が製造された。
車体・機器[編集]
車体は車両限界の狭い橿原線での運転のため、全長18.64m・車体幅2.59mの中型車体となった。
車内設備はその車体の小ささから大阪線の11400系と同等にはできず、座席幅の確保のために新規設計の転換クロスシートが採用された。
主電動機はモ600形の電装解除で発生したMB-213AF(端子電圧600V時出力112kW)を1両に4基搭載し、全電動車構成となった。
駆動方式は吊り掛け駆動。歯車比は53:26=2.04となった。
制御装置は同じく電装解除で発生した、三菱電機製HLF弱め界磁付単位スイッチ式手動加速制御器を搭載したが、抑速ブレーキおよび停止用発電ブレーキは省略された。
台車はすべて軸箱支持方式がシュリーレン式の新造品である。
第1編成は揺れ枕金属ばね台車のKD-55を履く。基本的な構造は8000系のKD-51と同じだが、吊り掛け駆動に対応したものとなった。
対して第2編成はベローズ式空気ばねによるインダイレクトマウント式台車のKD-59を履く。この台車は後の近鉄におけるダイレクトマウント空気ばね台車の設計に寄与した台車である。
ブレーキ方式はA動作弁の自動空気ブレーキであったが、中継弁を搭載するのでARブレーキとなっていた。前述のように発電ブレーキは省略された。
パンタグラフは680系と同様橿原神宮前方面に菱形のS-710を備える。
その後の動向[編集]
この車両の登場後、683系は予備車のポジションに戻ることができた。
しかしながら、1966年以降、18mでありながら京伊特急に対応した複電圧仕様の完全新造車18200系が5編成10両、さらにその後小断面でありながら20m級の18400系が10編成20両製造されて限定運用を強いられていた本形式と680系の重要性は低下していった。
ところが、1969年、京都線系統の架線電圧の1500V昇圧が行われた際、翌年に控えていた日本万国博覧会開催に伴う観光客の増加で特急車が不足することが予測されたため、格下げ改造はなされずに特急車のまま以下の改修工事が行われた。
- 昇圧非対応のHLF弱め界磁付単位スイッチ式手動加速制御器をAB弱め界磁なし電動カム軸式自動加速制御器に変更
- 1C8M化
- 電動発電機を奇数車に、空気圧縮機を偶数車に集中搭載
- モ18001とモ18004に貫通幌を設置[2]
発電ブレーキは省略されたが、主電動機出力が112kWから140kWに向上し、編成重量の軽減も相まって680系との性能差は縮まっている。
日本万国博覧会終了後は予備車に回ることが多くなり、主に天理教大祭の際の京都-天理間臨時特急などに充当されるようになった。
さらにその後、18400系の増備進展と橿原線車両限界拡大工事完了に伴う大阪線用特急車の乗り入れ開始により680系は1974年に名古屋線に団体用として転属し、更には1975年に志摩線の一般車に格下げされた。それに対し、本形式は格下げ改造も高性能化も難しかったため、予備車として残り、1974年にブレーキ方式がHSC電磁直通ブレーキに改造された。
それでも、
- 運用面で問題があり、ほとんど西大寺車庫にて留置され続けたこと
- 接客設備にも問題があったこと
- 車齢が17年であったにも関わらず主電動機に関しては昇圧改造の影響もあって老朽化が進行していたこと
などの理由により早期廃車の一因となって12600系に代替され、1982年9月30日付で4両とも廃車された。なお、10100系の発生品を利用して高性能化が行われるという噂もあったが、台車交換が必要なことなどからボツになり、代わりに920系がカルダン駆動化されたと言われる。
廃車後は直ちに解体処分され、現存するものはない。
注釈[編集]
関連項目[編集]