大井夫人
大井夫人(おおいふじん、明応6年11月17日(1497年12月10日) - 天文21年5月7日(1552年5月30日))は、戦国時代の女性。武田信虎の正室。武田信玄・武田信繁らの生母。名は不詳。法号は瑞雲院殿(ずいうんいんでん)。
生涯[編集]
父は大井信達。兄弟姉妹に信業、信常、武藤信堯、虎昌、虎成、武藤常昭、娘(今井信良室)、娘(小山田信有室)、娘(今井信元室)ら。
大井信達は武田信虎と対立を繰り返し、永正12年(1515年)に今川氏親と結んで信虎と戦う[1](富田城の戦い)。永正14年(1517年)に信虎と氏親の間で和睦が成立すると、大井信達も信虎にほとんど降伏の形で和睦し、その条件として信達の娘が信虎に嫁ぐことになった[1][2]。永正15年(1518年)に長女の定恵院(今川義元正室)を生む[2]。しかし信虎との仲は余り良いものではなかったという。永正16年(1519年)に信虎が本拠を川田から躑躅ヶ崎に移すと同行する[2]。永正18年(1521年)には嫡子の晴信を生むが、この際には今川氏親の軍勢に甲斐を攻められていたため、要害山に避難して出産している[3]。この4年後に信繁、そして信廉を生んでいる[3]。他に犬千代も彼女の所生とされる[4]。
天文10年(1541年)6月に信虎が駿河の今川義元の下に追放されると、信虎には同行せず晴信の庇護の下、甲斐で生活している。父の信達同様、和歌の才能があったようである[5]。また長禅寺の岐秀元白に帰依し、晴信の教育を委ねている[6]。躑躅ヶ崎館の北曲輪に住んだため、御北様と呼ばれた。天文17年(1548年)2月の上田原の戦いで晴信が村上義清に敗れながらなおも村上軍と対峙し続けた際には、家臣の依頼を受けて晴信に甲斐への帰還を口添えし、晴信もこれを受け入れて3月に上原城に帰還した[7]。
天文21年(1552年)5月7日に死去[7]。享年56。
翌年の一周忌の際に信廉が合掌する大井夫人の肖像画を描いて長禅寺に寄進しているが、それは優しい面影を現在に伝えている[7]。
法号は長禅寺殿心月珠泉大姉[7]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6