花倉の乱

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花倉の乱(はなくらのらん)とは、戦国時代の天文5年(1536年)に駿河国守護大名である今川氏の家中で発生した家督争いである。これにより、今川義元が今川家の家督を相続することになった。

概要[編集]

天文5年(1536年)に今川家の当主・今川氏輝が死去した。氏輝は生来から病弱だったため、万一に備えて代理当主の地位にあった実弟の今川彦五郎がいたが、彼も氏輝と同時に亡くなった[注釈 1]

氏輝は24歳の若さで嗣子は無く、このために次の当主をめぐって今川家家中において争いが起きる。候補者となったのは氏輝の弟たちで、同母弟の梅岳承芳、氏輝の異母弟で承芳にとっては異母兄にあたる玄広恵探であった。

その為、今川の傘下の家臣らはそれぞれ義元派と良真派に分かれた。義元派は太原雪斎、興津、岡部ら良真派は福島越前守、堀越氏、関口氏等となった。恵探派が久能城で挙兵し、今川館へ攻めるも失敗。その後北条の援軍と共にきた義元派に良真派は敗北し、良真は自害し、義元が今川当主となり終結した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 暗殺毒殺自害等様々な説があるがはっきりとしていない。

出典[編集]