勝沼信友
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勝沼 信友(かつぬま のぶとも、? - 天文4年8月22日[1][2](1535年9月19日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の一族で、武田信虎の同母弟[2]。武田信玄(晴信)の叔父にあたる。正式な名は武田 信友であり、勝沼は家号とされる[1]。兄弟に桜井信貞、吸江英心(大泉寺2世)、女子(小山田信有室)ら。子に信元、加藤信厚、松の葉(理慶尼)ら。
生涯[編集]
甲斐武田家の第17代当主・武田信縄の次男として生まれる[2]。生母は信縄の正室である崇昌院とされている[1][3]。仮名は五郎・次郎五郎[1][3]。官途は左衛門大輔(夫)[1][3]。受領名は安芸守[1]。ただし安芸守は当時の史料から確認できていない[1]。
居館は甲斐東郡勝沼郷にあったため、勝沼を家号としたが、永正17年(1520年)の都留郡岩殿七社権現社の棟札に武田左衛門大夫信友とあるため苗字はあくまで武田であった[1]。また、妹婿の小山田信有など小山田氏をはじめとする郡内衆を指揮下に置いていた[3]。
『勝山記』によると天文4年(1535年)8月、兄の信虎が万沢口で今川氏輝と戦闘に及んでいた際(万沢口の戦い)、相模の北条氏綱がその間隙をついて籠坂峠を越えて甲斐に侵攻してきたため、妹婿の小山田信有と共に迎撃に当たり、8月22日の郡内・山中合戦において大敗を喫し、信友は多くの武将と共に戦死した。
法名は不山道存居庵主[3]。
死後、家督は嫡子の信元が継いだ。ただし勝沼の所領には今井信甫が入部し継承はされなかった[1]。
脚注[編集]
勝沼信友が登場する作品[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6