三条の方

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三条の方(さんじょうのかた、大永元年(1521年)? - 元亀元年7月28日1570年8月29日))は、甲斐国戦国大名である武田信玄継室である。左大臣転法輪三条公頼の次女。姉には細川晴元室、妹には顕如の妻の如春尼がいる。子には武田義信黄梅院北条氏政室)、海野信親信之見性院穴山梅雪正室)がいる。本名は不詳。一般には三条の方、三条夫人などと称される。

経歴[編集]

上級公卿従一位左大臣の高位にあった三条公頼の娘として生まれる。天文5年(1536年)7月、武田信虎今川義元同盟を結んだ際、義元の生母である寿桂尼の仲介で信虎の嫡男である晴信(のちの信玄)の2番目の正室(継室)として京都から迎えられた。

三条家は家業が笛と装束で、夫人も教養に恵まれた女性だったと思われる。また容貌も美人で「西方の一美人」と呼ばれた。

晴信とは仲が良く、天文7年(1538年)に長男の義信が生まれたのをはじめ、3男2女に恵まれている。これは晴信の側室を含めても、一人の女性が生んだ子の数としては最も多いものである。

だが、三条夫人は家族運がとことん悪かった。次男の信親は幼くして失明し、実父の公頼は大寧寺の変に巻き込まれて周防国陶晴賢に殺害される。3男の信之は夭折した。長男の義信は優れた若武者に成長していたが、今川氏をめぐる外交政策で父の信玄と対立し、義信事件廃嫡され、その2年後に病死とも他殺とも自殺ともされる最期を遂げた。そして、この義信事件の余波で今川氏や後北条氏との甲駿相三国同盟が破綻するが、北条氏政に嫁いでいた長女の黄梅院が離縁され出家したとする説は誤認とされ事実ではなく北条に残り小田原城で病死により最期を迎えたとされる。つまり、視覚障害の信親と見性院以外の子女全てに先立たれたことになる。

流石にこれには心身ともに大いに応えただろう。三条夫人は元亀元年(1570年)7月28日に甲府で死去した。信玄に先立つこと3年であった。50歳であったとされている。墓所は山梨県円光院である。

人物像[編集]

快川紹喜は三条夫人の死に際して「春の陽光のように温かくて穏やかな人柄であった」と評している。また、三条夫人を継室に迎えたことで信玄は本願寺顕如と義理の兄弟となり、その縁を通じて織田信長と戦う際に連携することも出来た。

大河ドラマの武田信玄や小説、漫画などのフィクションにおいては、三条夫人は悪女として描かれている。晴信が若い頃に侍女を側室にしようとして嫉妬して毒殺したり、晴信と心情的に対立したり、諏訪氏を滅ぼした後に晴信は諏訪御寮人を側室に迎え、その間に武田勝頼が生まれているが、そのために晴信の寵愛が諏訪御寮人に移り、その嫉妬で諏訪御寮人を虐めたり勝頼を毒殺しようとしたりなどとした悪女とされている。

この悪女説に関しては一次史料は勿論、「甲陽軍鑑」などの信頼性に疑問が持たれるものでも記録はなく、濡れ衣としか言いようがない。そもそも諏訪御寮人は勝頼しか子女を生んでおらず、三条夫人が生んだ子女と較べれば雲泥の差で、どちらが寵愛されていたかは明らかである。恐らくは三条夫人の余りにも不幸な家族運、特に長男で継嗣だった義信が信玄と対立して後に不慮の死を遂げ、武田家の家督相続者が勝頼に移った、などの結果的な状況などが、このようなフィクションを生んだものと思われる。

信玄は三条夫人を最後まで愛していたようで、三条夫人の死後に空席となった正室の座には最後まで新しい後添えは迎えなかった。また、臨終に際しては一説として三条夫人と同じ円光院に葬るように命じたという。

登場作品[編集]

参考文献[編集]

  • 浅倉直美「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」『武田氏研究』第59号(武田史研究会、2019年1月)P1-13.
  • 杉山博「黄梅院殿春林宗芳への回想-武田信玄の娘・北条氏政室-」『歴史手帖』3巻7号
  • 海老名真治「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」『北条氏康とその時代』P296-297.