穴山信友
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穴山 信友(あなやま のぶとも、永正3年(1506年) - 永禄3年12月16日(1561年1月1日))は、戦国時代の武将。甲斐河内の領主・穴山家の一族で当主。甲斐武田家の家臣。正室は武田信虎の次女・南松院。子に信君、信邦、彦九郎。仮名は八郎[1]。法号は幡龍斎[1]。受領名は伊豆守[1]。史料には「武田八郎」とあるため、武田姓を名乗る事を許されていた可能性がある。
生涯[編集]
父は穴山信綱[1]で次男[2]。永正18年(1521年)2月に今川氏親による甲斐侵攻に呼応した信綱が8月に武田信虎の反攻を受けて降伏した際、駿河から帰国を命じられたとされる[3]。このため、今川家の人質だった可能性がある[2]。
享禄4年(1531年)に父が死去したため、家督を相続する[3]。正室に武田晴信の姉に当たる南松院殿を迎えた[3]。居館を南部から下山に移し、城下の整備を実施[3]。文人としては冷泉為和を招いて歌会を開いている[3]。
信虎追放後は晴信に従って今川家との外交で重きを成し[3]、信濃平定にも参加している。永禄3年(1560年)12月16日に死去。享年55。家督は南松院殿との間に生まれた嫡子の信君が継いだ。