三好氏
三好氏(みよしし)とは、日本の氏族である。戦国時代には戦国大名として畿内に三好政権を樹立し、一時的に中央政権を牛耳ったことで知られる。著名な人物として三好長慶、三好義継など多数がいる。
概要[編集]
出自と拡大[編集]
阿波国三好郡(現在の徳島県)を発祥とする。清和源氏の流れを汲み、小笠原長清の次男・三好長房が三好郡に居住して三好姓を称したのが起源といわれる。室町時代には阿波国の守護大名である細川氏に従い、永正3年(1506年)に三好之長が管領・細川政元の養子・細川澄元の側近となって上洛し、摂津国の守護代に任命されたのが大きく飛躍する起源となる[1]。以後、之長は細川京兆家の重臣として重きをなすようになり、同時に永正の錯乱や両細川の乱に巻き込まれてゆくようになる。之長は畿内の争いの中で台頭するが、最終的に細川高国に敗れて捕らえられて処刑され、この際に主だった一族のほとんども処刑されて、三好氏は一時的に没落した。
之長の死から7年後の大永7年(1527年)、之長の子あるいは孫とされる三好元長は、細川高国家で内訌が起こったのを契機に(桂川の戦い)、阿波国で挙兵し、澄元の遺児・細川晴元を奉じて上洛し、山城国の守護代となる[1]。元長は4年をかけて高国を滅ぼし、晴元を擁して畿内で台頭するが、その拡大しすぎた権力を主君の晴元に疎まれて粛清された。元長の遺児・長慶は幼少もあって許され、晴元の家臣として摂津守護代となって父の勢力をある程度保ち、再度三好氏は雌伏の時を迎える[1]。
三好政権[編集]
長慶には次弟に三好実休、3弟に安宅冬康、4弟に十河一存という賢弟たちがおり、この4兄弟はそれぞれが支えあって勢力を拡大した。晴元の家臣としての立場でありながら武功を積み、政治的にも拡大を続け、細川晴元と室町幕府の争いでは常に武功を立て続けた。しかし、晴元が元長の仇である三好政長を重用するにあたって長慶は晴元にその排斥を求め、それが拒否されると晴元に対して反旗を翻した。この際に起きた江口の戦いで三好軍は細川軍に勝利し、長慶は晴元と当時の室町幕府将軍・足利義輝、並びに大御所の足利義晴を京都から追放して細川政権、並びに室町幕府を実質的に消滅させて、三好政権を樹立した。
以後、長慶は京都の支配を実質的に果たしながら、義輝や晴元と争いながらも畿内で勢力を拡大する。しかし、三好政権は政権樹立のための大義名分を必要としたことから、義輝や晴元と和睦して両者を奉じるようになった。だが、成り上がりの存在である三好政権に対して六角氏や畠山氏など諸勢力が反攻し、久米田の戦いで実休が戦死。この前後に一存、そして長慶にとって唯一の男児であり後継者でもあった三好義興までもが死去してしまう。永禄7年(1564年)には冬康が長慶に呼び出されて誅殺される事態となり、三好政権はこうして相次いで主要な人物を失う事態になった。この頃から長慶も相次ぐ弟や息子の死に病がちになっており、実権は三好三人衆と松永久秀に握られるようになってゆく。長慶の後継者問題も起こり、長慶は弟・一存の子を義継として養子に迎えた。そして長慶も43歳で永禄7年に死去し、三好政権は短期間で政権主宰者とそれを支える重鎮を全て失う事態となった。
政権崩壊から滅亡へ[編集]
長慶の死後、まだ16歳の若さである義継の下で三好政権はまとまらず、重臣の三好三人衆と松永久秀が争うようになる。そんな中で長慶が奉じた足利義輝にも諸大名と通じて反攻の兆しが見えたので、永禄8年(1565年)5月に久秀や三人衆は永禄の変を起こして義輝を急襲し、暗殺した。
しかし、三人衆と久秀の争いは収まらず、同年冬から畿内でこの両勢力による争いが繰り返されるようになる。三人衆はその中で義輝の従弟・足利義栄を新たな将軍に擁立しようと画策するが、三人衆と久秀のどちらも決定力に欠け、勝負はつかなかった。このような中で義輝が暗殺された後に細川藤孝ら幕臣に助けられて畿内から脱出した義輝の弟・足利義昭は、尾張国・美濃国・伊勢国北部を制圧して勢いに乗る織田信長に迎えられると、永禄11年(1568年)9月に信長に奉じられて上洛を開始する。織田軍の侵攻に対して畿内で内紛を繰り返していただけの三好三人衆や松永久秀には最早成す術はなく、三人衆は畿内から逃走し、久秀は信長に降伏・臣従した。この際に20歳に成長して久秀に奉じられていた三好義継も信長に降伏・臣従し、信長から河内国若江城主としてその周囲の所領のみは安堵される一大名に転落。以後、三好氏は室町幕府、織田氏の家臣の地位に没落して、政権としての力は失った。ただし、前政権の実力者であったということもあり、義継の妻には義昭の妹が迎えられ、足利将軍家の一門に列している。
後に義昭と信長が対立。さらに浅井長政や朝倉義景、武田信玄など周囲の諸大名も巻き込んだ信長包囲網が敷かれると、義継は当初こそ信長に従ったが、やがて久秀と共に離反して包囲網の一員となる。だが、包囲網は信玄の死去と信長の反攻により次々と脱落。天正元年(1573年)に義継も信長が追放した義兄・足利義昭を若江に匿ったことにより信長が送り出した佐久間信盛率いる織田軍に攻められ、家臣の若江三人衆の裏切りもあって若江城は陥落。『信長公記』によると、義継は妻子一族をことごとく殺した後、奮戦して見事な死に様を飾ったという。こうして、三好家嫡流は滅亡・断絶した。
その後の動き[編集]
三好家の嫡流は滅亡したが、長慶の叔父にあたる三好康長はなおも河内国高屋城主として信長と戦った。しかし信長との実力差は歴然としており、天正3年(1575年)に信長に攻められて康長は降伏し、織田氏の家臣となった。
阿波国の国主だった実休の子・三好長治は暗君で、篠原長房ら重臣を粛清して国内に大混乱を巻き起こし、天正5年(1577年)には遂に義弟・細川真之に攻められて戦死した。その後、三好氏の生き残りである康長と長治の弟・十河存保らは信長の後ろ盾を得て四国での勢力を維持しようとするが、信長が本能寺の変で死去して後ろ盾を失うと両者は土佐国の長宗我部元親に攻められて没落する。康長は豊臣秀吉の時代を最後に消息不明となり、存保は天正14年(1586年)12月の戸次川の戦いで戦死して十河氏は改易となり、こうして三好氏は戦国の世から消えていった。
江戸時代には江戸幕府旗本になった三好氏が存在しており、どの系譜かは不明だが一族とされている[1]。
また、陸奥国仙台藩の藩士として伊達氏に仕えた三好氏も同族とされている[1]。
系譜[編集]
家臣団[編集]
三好政権傘下の武将[編集]
- 阿波衆
- 讃岐衆
(安富氏・香川氏は、東・西讃岐守護代であり、東讃の香西氏、西讃の奈良氏と合わせ細川四天王と呼ばれた。)
- 淡路衆
- 摂津衆
- 大和衆
- 丹波衆
- 山城衆
- 河内衆
- 和泉衆
- 播磨衆