小出秀政

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小出 秀政(こいで ひでまさ、天文9年(1540年[1]) - 慶長9年3月22日[1]1604年4月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名豊臣家、後に徳川家家臣和泉岸和田藩の初代藩主(在任:慶長5年(1600年) - 慶長9年3月22日1604年4月21日))[1]正室豊臣秀吉の叔母(大政所の妹)なので[1]、秀吉の義理の叔父に当たる。父は五郎左衛門正重。子は6男1女(吉政秀家日充三尹重堅秀清、娘(友松甚四郎室))。官位は従五位下播磨[1]

生涯[編集]

豊臣秀吉の時代[編集]

尾張愛知郡中村に生まれる[2]。この出自は豊臣秀吉と同郷のため、秀吉に早くから従って信任を受け、親族であるため厚遇された[2]。豊臣秀吉が天下の政務を司る立場になると蔵入地代官に任命された[2]天正13年(1585年)に秀吉が紀伊・根来征伐を行なうと岸和田城主に任命され、岸和田1400石、麻生郷2500石を与えられる[2]文禄3年(1595年)に木島1900石、五ヶ庄871石、麻生中村696石など合計6000石を加増されて以前の分と含めて1万石となり、豊臣政権下における大名となる[2]。翌年には和泉大鳥郡日根郡などの2万石を加増され、合計3万石となった[2]

この間、岸和田城を普請し、秀吉が死去する頃までに天守閣や矢倉、城門を完成させた[2]

関ヶ原と江戸時代[編集]

秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは長男・小才次吉政と共に西軍に属した[1]。しかし次男の秀家が東軍に属していたため、戦後は処罰されずに江戸幕府下における外様大名として事なきを得た[1]。慶長9年(1604年)3月22日に死去[1]。享年65。家督は長男の吉政が継いだ。

法名は陽雲日政本光院[1]。墓所は京都府本国寺[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 『三百藩藩主人名事典3』P541
  2. a b c d e f g 『三百藩藩主人名事典3』P540

参考文献[編集]

  • 『三百藩藩主人名事典3』藩主人名事典編纂委員会 編、1987年。新人物往来社